ヘンリー・ウォード・ビーチャーさんについて。

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ヘンリー・ウォード・ビーチャーさんは
アメリカの聖職者、演説家です。

 

1813年6月24日にアメリカで誕生し
1887年3月8日に73歳で亡くなりました。

 

この記事では
ヘンリー・ウォード・ビーチャーさんについて紹介します。

 

ヘンリー・ウォード・ビーチャーさんの経歴

出生

ヘンリー・ウォード・ビーチャーさんは
カルヴァン主義牧師の息子として
コネチカット州に生まれます。

3歳のときに母親が亡くなり、
父の再婚相手の継母に育てられます。

 

牧師の道へ

レイン神学校を卒業後、ビーチャーさんは
ユーニス・ブラードさんと結婚します。

そして
インディアナ州インディアナポリスと
ローレンスバーグで牧師を務めます。

 

1847年、ニューヨーク市の
ブルックリンのプリマス教会の
第一牧師になります。

巡回講義におけるユーモアや方言、
俗語などを交えた新奇な
雄弁さによって名声を得ました。

 

また、牧師としての職務を果たす中で
すべてのものの上に神の愛を強調する
神学を発展させます。

 

社会と政治の活動

ビーチャーさんは社会改革にも
関心を持つようになり、特に
奴隷制度廃止運動に関わります。

 

南北戦争に向かう時代、
奴隷を束縛状態から買い上げるために
お金を集めて、「ビーチャーの聖書」と
あだ名されたライフル銃を、
カンザス州やネブラスカ州で戦う
奴隷制度廃止運動家に送ります。

南北戦争の間にヨーロッパを渡り、
北軍への支持を訴えました。

南北戦争後、ビーチャーさんは
女性参政権禁酒運動など
社会改革を支持します。

 

裁判

当時、ビーチャーさんは
女たらしという噂も流れていました。

1872年、新聞の
ウッドハル&クラフリンズウィークリー」に
かつての同僚であるセオドア・ティルトンさんの
エリザベス・ティルトンさんとの
情事についての記事が掲載されます。

このことによって、ティルトンさんは
ビーチャーさんを姦通罪で起訴します。

 

その後の裁判では
評決不能陪審という結果になり、
この裁判は全国的な大騒ぎとなりました。

 

晩年

1871年、イェール大学が
「ライマン・ビーチャー講座」を設立、
そこでビーチャーさんは最初の3年間を教えます。

ビーチャーさんは裁判費用で
多くのお金を遣っていた為、
西部への講義ツアーを始めて
債務を無くしました。

 

1887年3月6日、ビーチャーさんは
脳卒中を起こし、2日後の8日に73歳で亡くなりました。

 

まとめ

この記事では
ヘンリー・ウォード・ビーチャーさんについて紹介しました。

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