卑弥呼の死因について。

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川に2人の女性
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邪馬台国の真実―卑弥呼の死と大和朝廷の成立前夜

卑弥呼は3世紀前半頃に邪馬台国を
統治した女王として知られています。

 

謎の多い女性ですが、卑弥呼の人生は
どのような最期を迎えたのでしょうか?

 

この記事では
卑弥呼の死因について紹介します。

 

 

卑弥呼の死因について

現代語訳 魏志倭人伝 (新人物文庫)

邪馬台国の卑弥呼については、
中国の歴史書である「三国志」の
魏志倭人伝」に書かれています。

卑弥呼は180年頃に邪馬台国の女王となり
247年頃に亡くなったと伝えられています。

 

しかし、魏志倭人伝には
卑弥呼の死因や死亡の
年月などの
記載がないのです。

 

卑弥呼の死については、
魏志倭人伝に次の通り書かれています。

倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人

この”卑弥呼以死”の部分の書き方で
卑弥呼の死因については様々な憶測がされています。

  • 戦死
  • 老衰
  • 他殺

これらの考えについて以下で解説していきます。

 

戦死【卑弥呼の死因】

卑弥呼の死因が戦死ではないかという説です。

この場合、一番考えられている戦が
邪馬台国と敵対していたとされる
最大の敵”狗奴国(くなこく)”との戦争です。

狗奴国は邪馬台国の
南にあった国と言われています。

この狗奴国との争いの中、卑弥呼が
狗奴国の王に殺されたと言われています。

 

そう考えられる理由は、魏志倭人伝の
卑弥呼の死についての記述の部分です。

卑弥呼以死の部分の前の文には
「倭の女王卑弥呼と狗奴国の
男王卑弥弓呼(ひみくこ)とは不仲であった」
という記述があるのです。

そして卑弥呼以死の「」を、
して」と読み、「だから」の意味合いで
して(だから)卑弥呼は死んだ」=不仲な狗奴国との紛争が死の原因と書かれていると考える説なのです。

 

老衰【卑弥呼の死因】

卑弥呼の死因は老衰と考える説です。

それは魏志倭人伝の
次の記述から推測されています。

年已長大

すでに卑弥呼の年は
長大という記述があった為、長大を老齢と見て
老衰だったのではないかとも考えられています。

また、
卑弥呼以死の「以」を「すでに」と読み、
卑弥呼はすでに死んでいたのではないかとも考えられています。

 

他殺【卑弥呼の死因】

卑弥呼の死因は戦死ではなく
他殺されたとする説です。

作家の松本清張さんがそのように考えたのです。

 

それは、卑弥呼の死が書かれていない為です。

理由を濁しているのには、
何か卑弥呼という女王にとって
不都合な死因だったからではないかと考えたのです。

また、誰に殺されたのかという推測については
狗奴国との争いに敗れてしまった責任をとらされ、
集結していた倭国の首長たちによって殺されたというものです。

 

卑弥呼は生前に自分の墓を作っていた!?

卑弥呼の墓 (1977年)

魏志倭人伝には、
卑弥呼の死について
次のように書かれています。

卑弥呼以死 大作冢

(ちょう)とは塚(墓)のことです。

この場合は、「以」の字を
すでに」と読んだり「思うに」と読んで
自分の死を思って生前から
墓をつくらせたのではないかと考える説です。

 

最後に

『卑弥呼以死』の行間を読む-古代史解読へのブレイクスルー-

この記事では
卑弥呼の死因について解説しました。

 

 

 

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