淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は
奈良時代の第47代天皇です。
誕生時期:733年
死亡時期:765年11月10日
淳仁天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
淳仁天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
淳仁天皇ってどんな人?
- 淳仁天皇の誕生日
- 淳仁天皇、皇太子に
- 淳仁天皇の践祚
- 淳仁天皇と孝謙上皇の対立
- 淳仁天皇と藤原仲麻呂の乱
- 淳仁天皇の謎の死
- 淳仁天皇の最期
淳仁天皇の誕生日
淳仁天皇は733年(天平5年)に
舎人親王(とねりしんのう)と当麻山背(たいまのやましろ)
との間の七男として生まれます。
※淳仁天皇の具体的な誕生日は不明です。
淳仁天皇の名は大炊王(おおいおう)で
天武天皇の孫にも関わらず、官位を受けることもなく目立たぬ存在でした。
淳仁天皇、皇太子に
756年聖武天皇の遺言により、次期天皇は
新田部親王の子である道祖王と定められますが
孝謙天皇によって道祖王は排除されます。
そして光明皇太后に信頼されていた
藤原仲麻呂の強い推薦によって、公式に
大炊王(淳仁天皇)が皇太子と定められます。
※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。
大炊王は、藤原仲麻呂の進言に従って
粟田諸姉(あわたのもろね)を妻に迎えます。
さらに藤原仲麻呂の個人の屋敷に住み、
藤原仲麻呂とのつながりを強めます。
淳仁天皇の践祚
758年、淳仁天皇は孝謙天皇から
譲位を受けて即位(践祚せんそ)すると同時に
孝謙天皇は太上上皇(孝謙上皇)となります。
しかし即位後も、政治の実権は
藤原仲麻呂が握っている状態が続きます。
淳仁天皇は、藤原仲麻呂を
太政大臣と同等の位である大師に任命し、
姓「恵美」と名「押勝」も与えます。
藤原仲麻呂は「藤原恵美押勝」と名乗り
わがままな振る舞いが目立つように。
しかし強大な後ろ盾となっていた
光明皇太后が亡くなると、少しずつ勢いが衰えていきます。
淳仁天皇と孝謙上皇の対立
同じ頃、孝謙上皇が
道鏡を寵愛するようになります。
道鏡とは、病に倒れた
孝謙上皇を看病した僧侶です。
このことを藤原仲麻呂が
淳仁天皇を通じて苦言を呈したところ、
孝謙上皇が大激怒します。
そして孝謙上皇は、
淳仁天皇と藤原仲麻呂と対立し、
二人を抑圧するようになります。
淳仁天皇と藤原仲麻呂の乱
764年、孝謙上皇と道鏡らを排除しようと
考えた藤原仲麻呂は反乱を計画します。
しかし敗北した藤原仲麻呂は
斬り殺されてしまいます。
淳仁天皇は直接加担をしませんでしたが
反乱の責任を問われて親王に降格、
天皇の位をはく奪されてしまいます。
さらに淡路に流されます(藤原仲麻呂の乱)。
淳仁天皇の謎の死
765年、淳仁天皇は幽閉先からの
脱走を試みますが失敗します。
そして脱走に失敗をした翌日に
病死したと伝えられています。
しかし、その不自然な流れから
孝謙上皇の命によって殺害されたと推測されています。
淳仁天皇の最期
淳仁天皇は
765年11月10日(天平神護元年10月23日)、
亡くなります。享年32歳。
敵対した孝謙上皇の意向により、長い間
天皇の一人と認められていませんでした。
そのため、淳仁天皇は廃帝または淡路廃帝と呼ばれていました。
最後に
淳仁天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
淳仁天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
この情報が少しでも
あなたの役に立てば幸いです。