結論からいいますと
孝謙天皇(称徳天皇)の死因は病死です。
※病名:天然痘(てんねんとう)
- 孝謙天皇(称徳天皇)の誕生時期:718年
- 孝謙天皇(称徳天皇)の死亡時期:770年8月28日
※孝謙天皇(称徳天皇)の最期の年齢は52歳
孝謙天皇(称徳天皇)はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
孝謙天皇(こうけんてんのう)は奈良時代を生きた日本の第46代、第48代天皇です。
- 誕生時期:718年
- 死亡時期:770年8月28日
一度天皇の位を退きますが、再び
即位するという重祚(ちょうそ)をした女帝です。
二度目の即位は
称徳天皇(しょうとくてんのう)と呼ばれています。
孝謙天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
孝謙天皇の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
- 孝謙天皇の誕生日
- 孝謙天皇と皇位継承問題
- 孝謙天皇即位
- 孝謙天皇と橘奈良麻呂の乱
- 孝謙天皇の上皇時代
- 孝謙天皇と藤原仲麻呂の乱
- 孝謙天皇の重祚
- 孝謙天皇(称徳天皇)の最期
孝謙天皇の誕生日
孝謙天皇は718年(養老2年)に
聖武天皇と光明皇后との間に生まれます。
※孝謙天皇の具体的な誕生日は不明です。
名は阿倍内親王(あべないしんのう)で
”続日本紀”では高野天皇と呼ばれています。
孝謙天皇と皇位継承問題
当時、皇位継承問題が起きていました。
本来は、男性を天皇にしたかったのですが
聖武天皇と光明皇后との間の男子は幼くして亡くなっています。
744年には安積親王も亡くなり、
聖武天皇の皇子は一人もいなくなります。
そして、次期天皇候補は唯一の皇女、
安倍内親王(孝謙天皇)のみとなるのです。
また女帝の即位は認められていましたが、
現代と同じく、女帝との間に生まれた子は
正当な跡継ぎには認められません。
そのため、女帝は子を産むことができず
結婚も許されていなかったので、孝謙天皇は生涯独身となります。
孝謙天皇即位
749年、父の聖武天皇の譲位で孝謙天皇が即位します。
聖武天皇は亡くなる前に、新田部親王の
子の道祖王を皇太子とする遺言を残します。
※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。
しかし孝謙天皇は道祖王は皇太子に
ふさわしくないとして道祖王を排除し、
舎人親王の子である大炊王(後の淳仁天皇)を新たな皇太子と定めます。
この道祖王の更迭には当時、光明皇太后が
信頼していた藤原仲麻呂の関与が考えられます。
孝謙天皇と橘奈良麻呂の乱
また勢力を増す藤原仲麻呂を警戒していた橘諸兄の子である橘奈良麻呂らが、孝謙天皇を排除しようと計画。
しかし事前に察知した藤原仲麻呂により、橘奈良麻呂一味の400人以上が処刑されます(橘奈良麻呂の乱)。
孝謙天皇の上皇時代
758年、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位、
孝謙天皇は上皇(孝謙上皇)となります。
淳仁天皇の下で最高権力者であった藤原仲麻呂が、「藤原恵美押勝」の名を賜り、実権を握ります。
761年、孝謙上皇は病で倒れた為、
道鏡という僧侶に看病をしてもらってから
この道鏡を寵愛するようになるのです。
道鏡の寵愛ぶりを警戒した藤原仲麻呂は、
淳仁天皇を通して孝謙上皇に苦言を呈します。
しかし、このことに大激怒した孝謙上皇は
淳仁天皇、藤原仲麻呂と対立、抑圧します。
孝謙天皇と藤原仲麻呂の乱
764年、藤原仲麻呂は
孝謙上皇と道鏡らを排除しようと計画。
しかし、計画が孝謙上皇に漏れていた為
孝謙上皇が作戦勝ちします(藤原仲麻呂の乱)。
藤原仲麻呂は処刑、淳仁天皇は流罪となります。
孝謙天皇の重祚
淳仁天皇の流罪によって、事実上
孝謙上皇が皇位に復活(重祚)します。
孝謙上皇は称徳天皇と呼ばれ、日本で
唯一出家したまま即位した天皇となります。
称徳天皇は道鏡を法王と定めて、
称徳天皇と道鏡による二頭政治が行われます。
当時は飢饉や謀反の事件が起こるなど
不安定な情勢だった為、称徳天皇は
西大寺の拡張や西隆寺の造営など仏教重視の政策を進めます。
孝謙天皇(称徳天皇)の最期
孝謙天皇(称徳天皇)は
770年8月28日(神護景雲4年8月4日)に
天然痘により亡くなります。享年52歳。