京都の愛宕神社とは?明智光秀のゆかりの地?【歴史をわかりやすく解説】

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京都にある愛宕神社を知っていますか?

実は、
本能寺の変を起こしたことで有名な
明智光秀と深い繋がりがあります。

 

そこでこの記事では
古くからある愛宕神社の歴史についてわかりやすく解説していきます。

 

京都「愛宕神社」について【その歴史とは?】

愛宕神社は
大宝年間(701~704年)に
京都の朝日峰に
神の霊を祀る神廟(しんびょう)を建てたのが始めとされています。

そのきっかけは
修験道の祖とされる役小角と
白山の開祖として知られる泰澄が
朝廷の許しを得たことで建てられました。

 

その後、
天応元年(781年)に
大安寺の僧である慶俊が復興させます。

また、
同年には和気清麻呂が
朝日峰に白雲寺を建て
愛宕大権現として鎮護国家の道場にしたと伝えられています。
(※鎮護国家とは国を守護・安定させる力があるとする思想のこと。)

 

平安時代(9世紀頃)には
霊山として七高山の1つに選ばれます。

その頃、
日本古来の神と
外来宗教である仏教とを結びつけた
神仏習合の時代であったため、
本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、
奥の院(現:若宮)には愛宕山の天狗太郎坊が祀られていました。

 

江戸時代に入ると
勝地院・教学院・大善院・威徳院・福寿院等の
社僧の住坊が存在し繁栄を見せていました。

 

しかし、
明治になると神仏分離令によって
神仏習合の慣習を禁止し、
神道と仏教、神と仏、神社と寺院と
区別はっきりさせることとなり、
白雲寺は廃絶されて現在の愛宕神社となりました。

本地仏であった勝軍地蔵は
京都市西京区大原野の金蔵寺に移され祀られています。

 

現在の愛宕神社は
火伏・防火に霊験のある神社として知られ、
全国に約900社を数える愛宕神社の本社として
愛宕山上に鎮座しています。

 

武将が訪れる愛宕神社

白雲寺に祀られていた勝軍地蔵は
地蔵菩薩でありました。

通常であれば装身具は身に着けないか、
着けていても瓔珞(ネックレス)程度の
シンプルなものなのですが、
鎧兜姿に馬にまたがるといった特異の風貌をしていました。

その姿から
武人としての命運が長く続くことや
戦勝を祈願する軍神として祀られ、
各地の武将が参詣していたと伝えられています。

 

明智光秀のゆかりの地

明智光秀も戦勝祈願のため、
天正10年(1582年)5月28日に愛宕神社へお参りに来たそうです。

 

その祈願というのは
織田信長を攻めるかどうかを
占うためだったといい、
おみくじを3回引いたといわれています。

初めに引いたおみくじが凶であったため
もう一度引くも同じく凶となり、
3度目にようやく大吉が出たそうです。

 

その夜、
山上にある白雲寺の西の坊で
連歌師の里村紹巴他と連歌の会(愛宕百韻)を催しました。

その際、
明智光秀が初めの一句詠んだ詩歌には
「ときはいま天(あめ)が下(した)知る
五月(さつき)かな」と、
また連歌会を締めくくる結びの句は
「国々なほ長閑(のどか)なる時」と詠んでいます。

紹巴は明智光秀の表情や態度が気になり、
冒頭で詠んだ「とき」は
「時」ではなく
「土岐氏」を指しているのではないか、
明智光秀が何か考えているのではないかと
明智光秀の内心を疑っていたと伝えられています。

 

そして翌朝の5月29日に明智光秀は下山し、
信長を討つことを決意して亀山へ帰城したそうです。

3日後の6月2日、
明智光秀は軍を引き連れて本能寺を襲撃し、
信長を討ちとりました。

 

最後に

明智光秀が訪れた愛宕神社は
今もなお京都に存在します。

明智光秀の時代では
戦勝を祈願する軍神として
知られていましたが、
現代では「火の用心」のお札で有名な
火伏せ・防火の神として信仰されています。

 

全国にある愛宕神社の総本宮ですので
一度は訪れてみたいものです。

 

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