明智光秀の娘(長女)の旦那「明智秀満」とは?

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明智秀満(あけちひでみつ)は
室町時代後期の戦国時代から
安土桃山時代までを生きた武将の一人です。

秀満という人物がどのような人生を歩んだのか
この記事でわかりやすく解説していきます。

 

明智秀満(あけちひでみつ)とは?

明智秀満の誕生

明智秀満は1536年(天文5年)頃に
誕生したとされていますが、
明確な資料は残されていません。

秀満は当初三宅弥平次という名で、
後に明智弥平次と名乗っていたと伝えられています。

幼名は岩千代、
改名して光俊とされており、
その他にも複数の別名が広く知れ渡っています。

明智秀満の出自

秀満の出自には確かな証拠がなく、諸説存在します。

一説によると、
明智光秀の家臣として
複数の名前が確認される三宅氏だとされています。

父の名を三宅出雲、
あるいは美濃の塗師の子、
児島高徳の子孫と称した
備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もあります。

 

あるいはもともと明智氏の出身で
明智光秀の叔父・明智光安の子であり、
光春や満春、左馬助(左馬之助)の名として
史料に登場しているのが秀満だとされ、
明智光秀とはいとこ関係であったとも伝えられています。

他にも明智光秀の叔父である明智光廉が
三宅氏を名乗っており、
そこから三宅の名をとったとも言われています。

 

もう一説には
秀満の父が明智光安だとし、
美濃国明知城主である
遠山景行と同一人物だすると、
景行の子・景玄が明智光春と同一人物であり
それが秀満ではないかという説があります。

または景行の妻が
三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、
子の景玄が母の三宅氏の跡を継いだという補説もあります。

 

明智秀満の結婚

1578年(天正6年)、
秀満は明智光秀の娘(長女)を妻に迎えています。

もともと彼女は
荒木村重の嫡男・村次に嫁ぎましたが、
村重が織田信長に謀反を起こし離縁されてしまいます。

その後に秀満と再婚したとされ、
秀満が明智姓を名乗ったのはこの頃だとされています。

明智秀満と明智光秀

結婚後の秀満は坂本城築城に関わるなど
明智光秀の重要な家臣として
欠かせない存在になっていきました。

信長から丹波平定の命令を受けた光秀は
福智山城を築き丹波平定を成し遂げた後、
この重要な拠点である福知山城の城主に秀満を指名します。

その後も
明智光秀が信長への謀反の意志を伝えた
5人の家臣の中に秀満がいたとされるほど信頼関係があったようです。

そして1582年(天正10年)、
本能寺の変では先陣を切って攻め入り、
計画通りに信長を討つことができました。

その後、安土城の守備につくも
山崎の戦いで豊富秀吉に明智光秀が敗れたことを知ります。

安土城を捨て坂本城へ入城すると、
秀吉方の堀秀政に包囲され防戦するも
名物がなくなることをおそれ、
目録を添えて堀一族の堀直政のところへ贈ります。

そして、
秀満は妻や明智光秀の妻子を刺し殺し、
自分は腹を切って煙硝に火を放ち自害したとされています。

最後に

明智秀満がどのような出自であるかは
わかっていませんが、
明智光秀の娘(長女)の旦那であり
また明智光秀にとっての重臣として
信頼されている立場であったことは間違いないです。

明智光秀の謀反にも一役買い、
その後も坂本城を守ろうとした秀満の行動は
これからも語り継がれるでしょう。

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