本能寺ってどんなお寺?どこにある?【歴史などもわかりやすく解説】

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本能寺といえば、
明智光秀が起こした「本能寺の変」の舞台となったお寺として有名です。

本能寺の変について知っていても
お寺について知らないという方が多いかと思います。

そこでこの記事では
本能寺とはどんなお寺か?
またどこにあるのか?
本能寺の歴史についてもわかりやすく解説していきます。

 

本能寺

本能寺はいつ、誰が建てたの?

本能寺は1415年(応永22年)、
門祖日隆聖人(日隆)によって創建されました。

日隆は室町時代の法華宗(日蓮宗)の僧で
法華宗本門流の大本山として本応寺(のちに本能寺)を建立します。

 

本能寺はどこにあるの?

本能寺は現在、
京都府京都市中京区下本能寺前町にあります。

創建当初は北を五条坊門小路、
南を高辻小路、
東を西洞院大路、
西を油小路で囲まれた地に建てており、
現在でいう京都市下京区ら辺です。

山林ではなく街中にお寺を建てたのには
多くの人々に「南無妙法蓮華経」を伝えるため、
この地を選んだとされています。

 

本能寺の歴史

本能寺の名称は
1415年から1432年までを「本応寺」とし、
1433年以降から「本能寺」という寺名になりました。

 

本能寺の創建者である日隆は
妙本寺4世・日霽を師とし教えを受けるも
法華経の解釈を巡って妙本寺5世・月明と対立します。

その志を遂げられず妙本寺を去り、
このとき寺門を開いたのが本応寺です。

しかし、1418年(応永5年)
本応寺は月明より破却され、
日隆は本厳寺(河内三井)や本興寺(尼崎)へと移ります。

 

1429年(永享元年)に帰洛した日隆は
小袖屋宗句の援助により
千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建しました。

また、
1433年(永享5年)には如意王丸から
六角大宮の西や四条坊門の北に
土地の寄進を受け、
このとき寺号を「本能寺」と改めました。
※寄進とは寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付すること

その後、
本能寺は法華経弘通の霊場として
法華宗の信仰が人々へ浸透していくと
「題目の巷」と呼ばれるほど繁栄していきます。

 

しかし、
1536年(天文5年)の天文法華の乱にて
延暦寺の焼き討ちに遭い、
堺の顕本寺へ一時避難しました。

それから1~2年後に帰洛し、
日承上人が入寺して本能寺8世となり、
1545年(天文14年)に四条西洞院に建立しています。

 

布教活動は
畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国や
種子島まで広布し、
本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。

また、
種子島へ早くから布教していたことで
鉄砲や火薬を入手できたため、
戦国大名と多く関わりがあったとされています。

織田信長もその一人であったようです。

 

信長が本能寺を上洛中の宿所としていた所、
1582年(天正10年)6月2日に
明智光秀の率いる軍勢に襲われるという
本能寺の変が起き、このとき本能寺が焼失しました。

 

その後1591年(天正19年)に
豊富秀吉の指示により
現在の中京区下本能寺前町へと移転させられ、
翌年に日衍聖人により再建されます。

しかし、1788年(天明8年)
天明大火という大規模の火災によって焼失してしまいました。

 

1840年(天保11年)に
日恩上人によって再建されるも
1864年(元治元年)、
禁門の変(蛤御門の変)でまたも本能寺は焼失するのでした。

1928年(昭和3年)7度目の再建があり、
それが現在の本能寺となります。

 

最後に

本能寺は明智光秀の起こした
本能寺の変」で有名なお寺ですが、
7度も再建されている寺だとは知らない方も多いでしょう。

長い歴史を持ち、
数々の戦国武将たちが関わったとなると
一度は行ってみたい気持ちになりますね。

 

戦国時代とは違う建物ですが、
今の本能寺が建てられてからも
100年近く経っていますので、
歴史を知ることのできるお寺の1つとして
是非訪れてみてはいかがでしょうか。

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