明智光秀の息子「明智自然(あけちじねん)」とは?

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明智光秀には子どもが複数いましたが、
人数などその詳細はわかっていません。

確実に存在していたと記録されているのは
明智光慶や明智玉(細川ガラシャ)です。

 

複数いる明智光秀の子の中の一人に
明智自然(あけちじねん)という息子がいたとされています。

この記事では
明智光秀の息子「明智自然」について
残されている情報をわかりやすくまとめました。

明智自然(あけちじねん)について

明智家の系図

明智光秀は謎が多く、
出生や家族構成、死因などについても
諸説あり詳しくわかっていません。

 

明智光秀の家系は
江戸元禄時代に書かれたとされる
「明智軍記」や
「明智系図」によって記されていますが、
それぞれ子孫の人数が違います。

「明智軍記」によると
3男4女の7人の子がいたとされています。
また、「明智系図」によると
6男7女(2人は養女)の13人の子がいたと記されています。

明智自然は実在する?!

「明智軍記」という資料だと
自然は明智光秀の五男にあたります。

幼少期には別名で十次郎と名乗っていたようです。

しかし、
「明智系図」には自然という名はありません。

十次郎という名は記されてはいますが、
明智光秀の次男にあたるようです。

 

このように
自然が五男であったのか次男であったのか、
また、
自然=十次郎であるのかなど
不確かな情報であり確実な資料は残されていません。

 

明智自然の人生

明智自然あるいは明智十次郎という人物が
同一人物であっても、
生まれた時期や幼少期の過ごし方などはわかっていません。
また、
初陣の記録や功績なども特になく、
目立った活動なども記録としてありません。

わかっていることは
明智光秀が山崎の戦で豊臣秀吉に負けて
討ち死にした後、
近江国・坂本城に帰還した明智秀満らと共に
中川清秀、高山右近らの攻撃を受け、
兄の光慶や他の一族と落城の際に自刃したとされています。

 

明智自然は存在しない説

明智自然という人物自体が
存在しない可能性もあると言われています。

天正二年閏十一月二日に
明智光秀が催した山何百韻という連歌会の記録に
細川藤孝、里村紹巴らの名前と共に「自然丸」という名が書かれていました。

しかし、
その後の連歌会には自然丸の名は消え、
入れ替わるように「光慶」の名が記録されています。

自然丸が元服し、
光慶を名乗った可能性があるということです。

そうなると
自然の存在はもともとなく、
自然丸が長男の光慶であったことが考えられます。

ただ、光慶の幼名は
「十五郎」または「十兵衛」と
他の資料に残されているため、
自然丸が光慶であったのかも定かではありません。

 

最後に

明智光秀に子がいたことは事実ですが、
明智自然が存在していたか、
あるいは他の兄弟と同一人物であったのかはわかりません。

しかし、
どちらにしても明智光秀が討たれたのちに
亡くなっていることは共通しているため、
生存していた可能性は低いと言えます。

 

父である明智光秀のことも不明な点が多いため、
子についても真相を突き止めるのは難しいでしょう。

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