明智光秀の刀(かたな)について。【8本の刀の歴史や特徴をわかりやすく解説】
明智光秀は戦(いくさ)のとき、
どのような刀で戦っていたのか?
明智光秀は刀を
何本ほど持っていたのでしょうか?
また、その刀はどのような経緯で
明智光秀の手に渡ってきたのでしょうか?
この記事では
明智光秀の刀(かたな)について
わかりやすく徹底的にまとめていきます。
明智光秀の刀(かたな)とは?
明智光秀が所持していたとされる刀は
次の8つの種類であったとされています。
- 地蔵行平
- 倶利伽羅郷
- 太郎坊兼光
- 切刃貞宗
- 明智兼光
- 明智近景
- 津田遠江長光
- 青屋長光
地蔵行平(じぞうゆきひら)
地蔵行平(じぞうゆきひら)は
行平という人物が作った刀で
二尺五寸六分の長さがあります。
(※二尺五寸六分=約97cm)
もともと足利義教の所有物で
のちに北条氏綱へと伝わり、
その北条氏綱が刀の手元の金具部分に
地蔵尊を彫ったといわれています。
※地蔵尊(じぞうそん):地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の敬称
↑地蔵尊のイメージ
その後の経緯は不明ですが
細川忠興の手元に渡ったあと、
安土桃山時代の天正9年(1581年)4月に
明智光秀を宮津城に招待したとき
この刀(地蔵行平)を贈ったとされています。
倶利伽羅郷(くりからごう)
倶利伽羅郷(くりからごう)は
郷義弘の作った明智光秀の短刀で
九寸三分の長さがあります。
(※九寸三分=約35cm)
もともと越前朝倉家が所蔵し、
朝倉家の御物奉行が
腰に差していたもので、
明智光秀が密かに聞き出し
入手したとされています。
この倶利伽羅郷は
明智光秀の秘蔵の刀であったため、
明智光秀が亡くなった後に明智秀満が
「あの世で光秀に渡すのだ」といって
明智光秀の刀(倶利伽羅郷)を持ったまま
自ら城に火を放って自害したといわれています。
その後の刀の姿はわかっていません。
太郎坊兼光(たろうぼうかねみつ)
太郎坊兼光(たろうぼうかねみつ)は
兼光の作った明智光秀の刀で
二尺三寸の長さがある長い刀です。
(※二尺三寸=約84cm)
もともと織田信長が
所有していた刀でしたが
明智光秀に贈ったとされています。
※明智光秀はこの刀を愛宕山へ奉納。
のち豊臣秀吉が別の刀を納めて
明智光秀が愛宕山へ奉納した刀
(太郎坊兼光)を取出したそうです。
この明智光秀の刀はその後、
青木一矩、加藤嘉明、丹羽長重へと
渡っていったとされています。
切刃貞宗(きりはさだむね)
切刃貞宗(きりはさだむね)は
脇差という本差が使えない時に
使用する予備の刀として作られたものです。
長さが一尺五寸で反り0.6cmあります。
(※一尺五寸=約57cm)
この刀(切刃貞宗)は
明智光秀から細川忠興を通じて
あの豊臣秀吉にも渡っています。
その後は、徳川秀忠より水戸徳川家、
讃岐高松藩主の頼重へと伝わったそうです。
明智兼光(あけちかねみつ)
明智兼光(あけちかねみつ)は脇差です。
※脇差(わきざし):本差が使えない時に使用する予備の刀
銘には本明備前長船兼光の名が刻まれています。
※銘(めい):金属製の器具に刻まれた製作者の名
明智光秀が所持していたこの刀は
かの有名な徳川家康へと伝わり、
その後の天正12年(1584年)に
成瀬正成に拝領されたそうです。
※成瀬正成は小牧・長久手の戦いで手柄を立てた人物です。
明智近景(あけちちかかげ)
明智近景(あけちちかかげ)は
二尺二寸五分の長さがあり、
反りは1.2cmある明智光秀の刀です。
(※2尺2寸5分=約85cm)
明智光秀が愛刀として
所有していたことでも知られ、
明智光秀の子孫だとされている
出羽庄内藩日向家に伝来されます。
その刀には
「備州長船近景」の銘、
「暦応三年」の年期銘、
「明智日向守所持」の所持銘が刻まれていました。
しかし、次に行き渡った所有者が
近景の銘と明智光秀の所持銘を削り取り
年期だけが今も残こっているそうです。
※近景(ちかげ):鎌倉時代後期に生まれ、室町時代を生きた刀工(日本刀を作る職人)の1人
津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)
津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)は
二尺三寸七分半の長さがあり
反りが七分ある明智光秀の太刀です。
(※二尺三寸七分半=約90cm・七分=約2.6cm)
もともと織田信長の所持していたものを
あの本能寺の変の後に明智光秀が奪い、
津田遠江守重久の手に渡ったとされています。
この明智光秀の刀はその後の江戸時代に
5代将軍徳川綱吉に献上されたり、
徳川吉通(とくがわよしみち)が拝領したりと
尾張徳川家に伝わったといわれています。
青屋長光(あおやながみつ)
青屋長光(あおやながみつ)は
二尺四寸の長さがある明智光秀の刀です。
(※二尺四寸=約91cm)
堺の青屋という商人が持っていたのを
佐々木義弼が買い求め、
それを佐久間右衛門に贈ったあと、
織田信長へと行き渡ったようです。
本能寺の変の後に、
明智光秀が安土城から持ち出し、
明智秀満に渡りましたが討たれた後、
豊臣秀吉が入手したものとされています。
その後、
上杉景勝、土井利勝、保科正之と渡り
徳川将軍家の御物となったそうです。
最後に
明智光秀の刀(かたな)について
計8本をわかりやすく簡単に紹介しました。
明智光秀自身が持っていた刀だけでなく、
織田信長らから贈られたものや
戦(いくさ)に勝ち入手したものなど
それぞれ違う思い入れがあったものでしょう。
特に「倶利伽羅郷」は
明智光秀の秘蔵の刀として
大切にしていたようですが
今は存在しなく、実物が見ることができす残念です。