明智光秀が攻めた城「黒井城」とは?【歴史や黒井城跡の見どころなども紹介】

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黒井城がどんな城なのか
あなたは知っていますか?

 

明智光秀が攻めたとして知られる
城の歴史についてや
黒井城跡の見どころなどについても
この記事でわかりやすく紹介していきます。

 

黒井城とは?

黒井城は、
1334~1338年の建武年間に築城されています。

場所は兵庫県丹波市にある
猪ノ口山の山頂に築かれた城で、
三方向に広がる尾根筋上には
多数の城塞が配置されていました。
※城塞とは、外敵等の攻撃から重要な地点を守る為に築かれた構築物

黒井城はその中心となる本城として
約250年間存続していたと伝えられています。

別名で
保月城(ほげつじょう)や
保築城(ほづきじょう)とも呼ばれています。

 

黒井城の歴史

黒井城の歴史について
2つの時代に分けて解説していきます。

  • 室町時代
  • 安土桃山時代

 

室町時代

黒井城は1335年(建武2年)に築城されました。

足利尊氏に従軍していた
赤松貞範(則村の二男)が、
新田義貞軍と戦った功績により
丹波国氷上郡春日部荘が与えられ、
その山頂に城を築いたことが始まりとされています。

赤松五代に渡って約120年間
この地を統治していたようですが、
対立関係にあった荻野氏がのちに城主となり、
荻野正元・荻野秋清らが在城しています。

1554年(天文23年)には
一族の萩野直正(悪右衛門)が秋清を倒し、
黒井城を乗っ取りました。

その後、
直正によって一族を統率し、
1565年(永禄8年)には丹後や但馬にも勢力を拡大していきます。

その勢いは止まることなく、
この頃に黒井城の大改修が行われたようです。

そして、
1570年(元亀元年)には
織田信長より丹波奥三郡の所有を認められていました。

 

安土桃山時代

1573年以降の天正の初めころ
黒井城を本拠として
武田勝頼・石山本願寺・毛利氏らと共に
信長と敵対することになりました。
これを第一次黒井城の戦いと呼びます。

1575年(天正3年)、
信長は明智光秀を総大将として
丹波国征討戦を開始させます。

明智光秀は黒井城を包囲し、
攻城戦が2ヵ月以上と続くも
八上城城主の波多野秀治軍が
光秀軍の背後をつき総退却となります。

 

1577年(天正5年)、
光秀は再び攻めるために
細川藤孝、細川忠興の増援を得て、
第二次黒井城の戦いが始まります。

しかし、
1578年(天正6年)に直正は病死し、
その子直義の後見として
直正の弟である幸家が指揮をとるも
1579年(天正7年)に黒井城は落城してしまいました。

その後、
氷上郡一帯の統治のために黒井城に入ったのが
明智光秀の重臣であった斎藤利三です。

明智光秀が「山崎の戦い」で敗れると
羽柴秀吉の家臣であった堀尾吉晴が入城するも
1584年(天正12年)に
羽柴秀吉と徳川家康の間で
小牧・長久手の戦いが起き、
その後に黒井城は廃城になったとされています。

 

黒井城跡の見どころ

現在、黒井城址は整備され、
戦国時代の城の様子をそのまま残した
貴重な城跡として、
全国的に高い評価を受けています。

2017年(平成29年)には
続日本100名城(163番)に選ばれました。

 

標高356mある猪ノ口山の山頂部には
本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる主曲輪があります。

主曲輪の一段下には
東曲輪、西曲輪の帯曲輪があり、
石垣は野面積み、隅部は算木積み
と言われる工法で築かれており、
天正年間(1573~1591年)の石垣だとされています。

また、山頂部以外の山麓にも
多数の曲輪群が配され、
山頂部の防御を固めるために作られたものでしょう。

 

登山口から東曲輪、三ノ丸、二ノ丸、
本丸と段々上に向かい、
山頂まで約40~50分程度かかりますが
素晴らしい景色を見ることができます。

 

最後に

黒井城は古くからある城ではありますが、
今も当時のまま残されている遺構があるため
歴史を感じるのにおすすめのスポットです。

 

また、
黒井城址の山頂から眺める景色に
圧巻されるとともに、
周囲がよく見渡せることから
戦略的に考えられた城としても関心します。

明智光秀でも簡単に攻められなかった
黒井城をぜひ観光してみてはいかがですか?

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