明智光秀の娘(次女)の旦那「明智光忠」とは?

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明智光忠(あけちみつただ)は
室町時代後期から安土桃山時代に生きた武将の一人です。

光忠はどんな人物であったのか、
また
明智光秀とはどのような関係にあったのか、
この記事でわかりやすくまとめました。

明智光忠(あけちみつただ)とは?

明智光忠の誕生

明智光忠は1540年(天文9年)に
明智光久の子として誕生します。
母親は誰かわかっていません。

別名、次右衛門や治右衛門の名としても知られています。

また、のちに剃髪した際は
「長閒斎(ちょうけんさい)」の名を号していました。

 

明智光忠と明智光秀との関係

「明智軍記」によると、
光忠の父・光久は
明智光秀の父・明智光綱と兄弟であるため、
光秀とはいとこ関係であることが記されています。
※明智軍記は光秀の死後100年ほど経った頃に書かれた軍記物

 

また、結婚時期は不明ですが
明智光秀の娘(次女)を妻に迎えたことで
光秀とは義父という間柄にもなりました。

一説によると、
光忠の妻は二人居たとも言われています。
最初の妻、
光秀の娘と結婚するも
若くして亡くなってしまい、
その後再び光秀の娘をめとったとされています。

光秀の次女が
光忠の最初の妻にあたるのか、
二番目の妻なのかはわかりません。

 

明智光忠の活躍と最期

1556年(弘治2年)、
光忠が居城する明智城が
稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受けると、
城主光安や父・光久、
三宅氏、藤田氏、妻木氏らと共に
城を守ろうと籠城するも落城し、
その後一時行方不明となります。
(※落城の時、光安は自刃したとされ、
光久や光忠らも共に自刃しているという説もあります。)

 

落城後になんとか逃れた光忠は
光秀が織田信長の家臣となると
父・光久と光秀に仕えます。

そして、信長の命により
丹波攻略を任された光秀と共に
1575年(天正3)、
丹波過部城と篠山城の攻撃において
戦で手柄を立て信長に認められます。

その後、
亀山城へ光忠を留守居として入れ、
1579年(天正7年)には丹波八上城が落城すると
八上城の城主を任せました。

 

1582年(天正10年)の本能寺の変では
信長の子・織田信忠らがいる
二条御新造を攻めるも銃弾を受け負傷してしまいます。

知恩院で療養していたところ、
山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ
その後に討ち死したと聞き、
光忠は近江坂本城へ向かい
明智秀満らと共に自害したとされています。

享年43歳でした。

また、
妻(光秀の次女)がどうなったかは不明で、
八上城か坂本城で共に自害したと推測されています。

光忠には光近という子供がいたようですが
その詳細は不明で、
父母と共に自害した可能性が高いです。

 

最後に

明智光忠は
明智家系の中では影の薄い存在に見えますが、
光秀を支える家臣の一人として活躍していました。

本能寺の変で負傷するも
光秀の死を知り坂本城へ向かう強さは
光秀への忠誠心を忘れていなかったからでしょう。

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