明智光秀の母親「明智牧」とは?【明智光秀の母について】

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明智光秀伝: 本能寺の変に至る派閥力学

明智光秀の母親について
詳しいことはわかっていません。

歴史上、明智牧(あけち まき)という女性が
明智光秀の母親と言われることが多いです。

 

ちなみに
明智光秀の子ども時代についても
ほとんど何もわかっていません。

織田信長の家臣へと出世するまでの
明智光秀の歴史はほとんど不明なのです。

 

多くの謎に包まれた明智光秀ですが、
今回その母親について詳しくまとめました。

 

明智光秀の母親「明智牧」について。

光秀 歴史小説傑作選 (PHP文芸文庫)

明智光秀の母親の名は
「明智牧(あけち まき)」で
若狭武田氏の出身だと伝えられています。
※若狭武田氏:甲斐武田氏の一族

明智牧は、別名で「お牧」や
「於牧の方」などとも呼ばれることもあります。

「鈴木叢書」十三所収の明智系図には、
明智光秀の父親候補「明智光隆」の
名前の下に「妻武田義統妹」とあります。

義統は若狭国守護・若狭武田氏の8代当主です。

※明智光秀の父親の名は
明智光隆ではない可能性もあります。

 

明智光秀の出身についてすら
未だにわからないことが多く、
明智光秀の母親のことについても
じつは詳しい内容がわかっていません。

 

明智光秀の母親「明智牧」の運命

おんなの戦 (角川文庫)

明智光秀は、織田信長より、
丹波国一円に勢力を持っていた
八上城を落とすように命じられます。

毛利氏からの支援を受けていた
波多野秀治ら三兄弟が八上城の城主で
明智光秀は包囲し和議を勧めました。

しかし、波多野氏らは応じず
明智光秀は難戦をきわめていたそうです。

 

そこで八上城を重包囲、
兵糧攻めにした上で
明智光秀は波多野氏らに
もう一度、和議を勧めます。
※和議(わぎ):仲なおりの相談

その和議で出た話しの中身は
自分の母親である「お牧の方」を
八上城に人質として出すことを条件とし、
波多野三兄弟を降伏させるものだったそう。
※お牧の方=明智牧(明智光秀の母)

 

そして、1579年(天正7年)に
明智光秀の母であるお牧の方が
八上城に送られるのと入れ替わりに、
明智光秀と波多野三兄弟とは
和解成立の挨拶のために安土城へと向かいます。

 

ところが織田信長は約束を守らず、
滋恩寺町で波多野三兄弟を
磔(はりつけ)に処してしまったそうです。
※滋恩寺町の場所:滋賀県

八上城に居残る波多野の家臣たちは
これに激怒し、人質になっていた
明智牧(お牧の方)を磔にし報復。

 

つまり明智光秀の母親は
織田信長の裏切りにより
殺された可能性があるということです。

 

もしこの歴史が本当なら
明智光秀は大切な母親を亡くし、
気を落としたことでしょう。

この話は同時代の資料には記載されていません。
そのため明智光秀の死後、時が長く流れた後に
誰かが創作したストーリーである可能性もあります。

 

明智光秀が本能寺の変を起こしたきっかけは母親の死?!

完全版 本能寺の変 431年目の真実 (河出文庫)

織田信長の命令により
八上城を取りまとめたのにも関わらず、
母親を殺されることになった明智光秀は
とても深い恨みを抱いたとされています。

そして、3年後の母親の命日に
明智光秀は本能寺の変を起こし
織田信長を追いつめたとも言われています。

 

最後に

明智光秀と近江・ 丹波 分国支配から「本能寺の変」へ (淡海文庫)

明智光秀本能寺の変
主君の織田信長を討った
裏切り者としてのイメージが強いです。

しかし、織田信長が
明智光秀の母親を死亡させる
きっかけを作ったのであれば、
明智光秀が母親の敵として
本能寺の変を起こしても不思議ではありません。

 

明智光秀には謎が多いため、
同じく母親についてもわからないことが多いです。

 

明智光秀の母のお牧の方の墓は
今もなお残されており、
岐阜県恵那市明智町にあります。

「敵は本能寺にあり」という
言葉が書かれた石碑が建てられ、
そこには丹波攻略の折に
非業の死を遂げたお牧の方の最期が記されています。

 

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