明智光秀が建てた2つのお城について。

WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -

明智光秀といえば、
本能寺の変」が真っ先に頭に浮かぶかもしれない。

 

織田信長を倒したことで
一躍有名になった明智光秀ですが、
戦国武将としてだけでなく
城を守り築き上げていく力も優れていたそうです。

 

その明智光秀が築城した城について詳しく解説していきます。

 

明智光秀が建てたお城について

明智光秀が築城したとされる城は2つあり、
一際優れた才能を持っていた明智光秀は
築城の名手といわれていたそうです。

 

坂本城【明智光秀が建てたお城】

お城のカード 登城記念カード 明智光秀 坂本城

坂本城(さかもとじょう)
当時の近江国滋賀郡坂本、
現在の滋賀県大津市に位置していました。

明智光秀が築いた代表的な城で
1571年(元亀2年)比叡山焼き討ちで
手柄を上げた明智光秀
近江志賀郡5万石が与えられたことで
この地に城を築いたとされています。

1572年に坂本城の着工を始め、
1573年には坂本城に入っているそうです。

 

坂本城は西側に比叡山の山脈があり、
東側は琵琶湖に面していることから
天然の要害を備えた守りやすい立地でした。

また、
比叡山は近江国と山城国にまたがり、
白鳥道と山中道の2つの道は
両国を結ぶ道路が通じています。

中世、近世において、
比叡山への物資輸送のために
頻繁に利用される港町として
坂本は交通の要所へと栄えていきました。

 

その後明智光秀本能寺の変
織田信長を自害に追いつめましたが
山崎の戦い豊臣秀吉に敗北しました。

そして坂本城に逃げ戻る途中、
百姓に襲われてたのが致命傷となり自害しました。

 

坂本城に残っていた明智秀満
豊臣秀吉勢に囲まれる中、
自ら城に火を放ち坂本城は焼失。

 

その後、
丹羽長秀により再建されるも
大津城が建設されたために廃城となり、
建材も大津城に提供されました。

そのため現在は建物は残っておらず、
城跡の碑がその地に建てられています。

 

亀山城【明智光秀が建てたお城】

二代目歌川国輝『末廣五十三次 亀山』木版画 浮世絵 風景画 東海道 53次 三重 城 宿場町 街道 城下町 幕末 将軍 大名行列 軍隊 兵隊 武士 侍 人物画 錦絵【版画 絵画】【B4411】

亀山城(かめやまじょう)
当時の丹波国桑田郡亀岡に、
(現在の京都府亀岡市荒塚町周辺)
建てられた明智光秀のお城です。

 

織田信長にとって
有力家臣だった明智光秀
丹波の統治を任され、
丹波中心部である亀岡を選び、
1578年(天正6年)に亀山城の築城を開始しました。

 

 

1582年(天正10年)に
明智光秀本能寺の変を起こし、
その後の戦で豊臣秀吉に敗れ
逃走中に自害へと追い込まれました。

 

亀山城は豊臣秀吉の統治下に置かれ、
重要な拠点として一族の有力者が
次々と城の管理者になります。

 

豊臣秀吉の死後は
徳川家康が幕府を開き、
その時代でもこの城は注視され
重要な人物を配置しようと考えられました。

そして、
譜代大名である岡部長盛を丹波亀山藩主に任じます。

さらに、
幕府が西国大名らに亀山城の大修築を命じ
藤堂高虎が縄張りを勤め、
本丸には5重の層塔型天守が完成しました。

 

しかし、
明治維新後は亀山城は廃城となり、
市町村に払い下げされ転売されました。

その後に新興宗教「大本」の所有となります。

 

第2次世界大戦に入ると
大日本帝国政府の宗教弾圧により、
1936年(昭和11年)に亀山城は
ダイナマイトで破壊されてしまいました。

戦後は大本教に所有権が戻され、
現在も宗教法人大本の敷地となっています。

 

最後に

逆軍の旗

明智光秀が建てた2つのお城は
長きに渡り重要な城として大きな役割を果たしました。

しかし残念ながら、
今はどちらの城も存在していません。

 

現在に至るまで語られるほど
称えられた2つのお城は
さぞ立派なお城だったことでしょう。

 

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Copyright© なぜ、明智光秀。 , 2019 All Rights Reserved.