勝竜寺城とは?細川ガラシャや明智光秀のゆかりの地?【歴史をわかりやすく解説】

WRITER
 
勝竜寺城の模擬櫓と虎口跡
この記事を書いている人 - WRITER -

勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は
明智光秀や、明智光秀光秀の子である
細川ガラシャゆかりの地でもある城です。

 

いつごろ、誰が建てた城なのか、
明智家との関連性についても
勝竜寺城の歴史のなかでわかりやすく解説していきます。

 

勝竜寺城とは?

勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は
室町時代から江戸時代初期まであった城で
現在の京都府長岡京市勝竜寺に築城されました。

京都盆地の西南部に位置し、
西国街道と久我畷が交差する
交通上の要衝として、
京都では山崎城につぐ防衛拠点としていました。

 

現在は勝竜寺城公園として整備され、
1992年(平成4年)には模擬櫓などが建造され
市民の憩いの広場として親しまれています。

 

勝竜寺城の歴史

勝竜寺城の歴史について
3つの時代に分けて解説していきます。

  • 室町時代
  • 安土桃山時代
  • 江戸時代

 

室町時代【勝竜寺城の歴史】

勝龍寺城は1339年(暦応2年)に
足利尊氏の指示により
細川頼春が築城したとされていますが、
真偽は定かではありません。

歴史的な根拠はなく、
「よみがえる日本の城」によると
後に城主となる細川藤孝(幽斎)
正当性を強調するための創作ではないかと考えられています。

 

この城の初見は1457年(康正3年)とされ、
「東寺百合文章ひ」によると
山城守護畠山義就が
郡代役所として築城したことが記されていました。

また、
1470年(応仁2年)の応仁の乱での
「野田泰忠軍忠状」には
勝竜寺城が軍事施設として使われたことがうかがえます。

その後の1566年(永禄9年)
「永禄九年記」によれば、
戦国時代末期には淀古城と共に
三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀の属城となっていたようです。
※淀古城(よどこじょう)は京都府京都市伏見区納所北城堀にあった城

 

1568年(永禄11年)には
織田信長
柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら
4人の家臣に先陣を命じ、
勝竜寺城を攻撃させると勝竜寺城の戦いが勃発します。

畿内の広範囲を
勢力下に置いていた三好三人衆でしたが、
信長軍5万兵の大軍を前にすると降伏し、
勝竜寺城を開城しました。

 

そして1571年(元亀2年)、
織田信長より山城西岡一帯を与えられた
細川藤孝が勝竜寺城の城主となります。

またこの頃に信長の指示で
勝竜寺城に二重の堀を作って堅固な城へと改修しました。

信長にとって勝竜寺城は
槇島城と共に二大前線拠点としての
大きな役割があったとされています。
※槇島城(まきしまじょう)は京都府宇治市槇島町に存在した城

 

安土桃山時代【勝竜寺城の歴史】

藤孝が丹後へ入封すると
代わって村井貞勝の家臣である
矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となりました。

しかし、
1582年(天正10年)の
本能寺の変によって明智光秀の属城となります。

その後山崎の戦いで敗れた明智光秀は
勝龍寺城に帰城するも
明智軍を破った豊臣秀吉軍の追撃を受け、
豊臣秀吉が勝龍寺城へ入城します。

このあと豊臣秀吉が山崎城を築いたこともあり、
勝龍寺城の石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃します。

 

江戸時代【勝竜寺城の歴史】

1633年(寛永10年)、
江戸時代になると
永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、
荒廃していた勝竜寺城の修築を行いました。

しかし、
1649年(慶安2年)に直清が
摂津高槻藩に転封されると同時に
勝竜寺城は完全に廃城となってしまいます。

 

勝竜寺城は細川ガラシャや明智光秀のゆかりの地

勝竜寺城は明智光秀の子である
細川ガラシャ(明智玉)と深いゆかりがあります。

 

1578年(天正6年)に
細川藤孝の嫡男である細川忠興と
明智玉のちの細川ガラシャが
ここ勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、
新婚時代を過ごしてきたとされています。

しかし、その期間は短いもので
ガラシャが細川家へ嫁いで数年後の
1582年(天正10年)、
父の光秀が本能寺の変を起こしたことで
一時ガラシャは幽閉されてしまい
勝竜寺城で過ごすことはなくなったとされています。

 

最後に

勝竜寺城は
誰がどんな目的で建てた城なのか、
実際のところわかっていません。

 

しかし、明智光秀
明智光秀の子「細川ガラシャ」が関わっていたことは
史料として残っています。

 

現在では勝竜寺城公園として
日本の歴史公園100選に選ばれ、
管理棟には資料展示室が設けられています。

また、
勝竜寺城公園内には2人の銅像が建てられ、
そばには「ガラシャおもかげの水」と名づけられた水飲み場があります。

 

明智家に関わった勝竜寺城址へ
一度足を運んでみてはいかがでしょうか?

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Copyright© なぜ、明智光秀。 , 2019 All Rights Reserved.