細川忠興ってどんな人?何をした人?【簡単にわかりやすく解説】

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室町時代後半から江戸時代初期にかけて
細川忠興(ほそかわただおき)という武将がいました。

細川忠興がどんな人で、何をした人か、
簡単にわかりやすく解説していきます。

細川忠興の一生

誕生から幼少期

細川忠興は1563年(永禄6年)11月13日に
細川幽斎(藤孝)と沼田麝香(じゃこう)
長男として京都で誕生し、
幼少期は熊千代という名でした。

この頃、父の幽斎は
室町幕府将軍であった足利義輝に仕えていました。

義輝の指示により
奥州家の細川輝経の養子となりますが
この養子縁組は系譜上のものであり、
その後も幽斎と共に行動し領国も受け継いでいます。
※系譜とは、先祖から子孫に至る代々のつながりを書き表した記録のこと

 

1565年(永禄8年)の永禄の変で
義輝が三好三人衆に討たれると、
幽斎や明智光秀らは織田信長を頼って
義輝の弟・義昭を第15代将軍に就かせようと支持しました。

やがて信長と義昭が対立すると
幽斎は信長に臣下として従い、
忠興は信長の嫡男であった信忠に仕えます。
臣下(しんか)とは、君主に仕える者のこと

細川忠興と織田家

1577年(天正5年)
忠興が15歳のとき、
紀州征伐に加わり初戦で勝利を収めました。

その翌年に元服し、
信忠より偏諱を受け「忠興」と名乗るようになります。
※偏諱とは、主従関係の証として主君から家臣に一文字与えた名のこと

また、
同年に信長の仲介を受け、
光秀の三女・明智玉(ガラシャ)と婚姻し、
勝竜寺城で盛大な結婚式が行われたそうです。
その後、
玉(ガラシャ)との間には3男2女が生まれました。

細川忠興と明智光秀

1582年(天正10年)、
義父の光秀が本能寺の変を起こすと
幽斎や忠興らは味方に誘われるも拒否します。

細川父子に断られた光秀は
これが滅亡の決定打となり、
山崎の戦い後に敗死しました。

このとき妻のガラシャは
逆臣として狙われるのを防ぐために
丹後へ幽閉したとされています。
※丹後の場所:京都府北部

また、
細川家は速やかに剃髪することで
信長への弔意を表し、
光秀との関係性がないことを示しました。

その後、幽斎が隠居し
忠興が家督を継ぎ宮津城主となります。

細川忠興と豊臣秀吉

細川家は次期天下人の地位を狙う
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と親しい関係を結ぼうと
北丹後の一色満信らを滅ぼしたことで
丹後全域の領有が許され、丹後平定を成し遂げました。

その後1584年(天正12年)
小牧・長久手の戦いに参加し、
翌年には従四位下・侍従という位階を授けます。
※侍従(じじゅう)は君主の身の回りの世話など側で仕える人

また、
このとき秀吉から羽柴姓も与えられました。

その後も
九州征伐や小田原征伐に従軍したり、
2度にわたる晋州城攻防戦にも参加して
晋州城を陥落させます。

1598年(慶長3年)秀吉が死去すると、
石田三成らと対立して
徳川家康と親しい関係を結びました。

細川忠興と徳川家康

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで
東軍の家康の味方につくと、
忠興は黒田長政らと共に
石田三成の本隊と激闘し、
首級を136上げ大活躍しました。
※首級とは、討ちとった敵の首のこと

しかしその頃、
大坂城内の細川屋敷にいた
妻の玉(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、
人質となることを拒び自害します。

父の幽斎と弟の幸隆は
田辺城に立て籠もるも
後陽成天皇からの命により田辺城を開城し、
敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入りました。

 

 

関ヶ原の戦いの論功行賞で、
丹後国宮津18万石の領主であった忠興は
豊前国1国と豊後国速見郡、国東郡合せて
39万9千石で入封します。
※論功行賞とは、功績に応じた見返りを与えること

初めは中津城に入城しますが
7年かけ小倉城を改築し居城すると
小倉初代藩主となりました。

 

そのまま家康の元で仕え、
1615年(慶長16年)では
癪の持病を抱えながらも大坂夏の陣に参戦します。
※癪(しゃく)とは、胸や腹が急に痙攣(けいれん)を起こして痛むこと

しかし1620年(元和6年)、
病気のため三男の忠利に家督を譲り隠居しました。
このとき忠興は出家して、
名を「三斎宗立」としています。

その後1645年(正保2年)12月2日、
享年83歳で生涯を終えました。

 

細川忠興ってどんな人?

細川忠興は妻の玉子への愛情が深く
愛妻家として知られていますが、
一方で短気な性格でもあったようです。

その性格から
身内の者にも容赦をなく、
父の幽斎が田辺城を開城したことで
一時不和になっていました。
また、
弟の興元や妹の伊也とも不仲であったとされています。

忠興は父と同じ教養人でもあり、
和歌や能楽、絵画などの才能がありました。
また、
漢方薬に興味を抱き医師指導のもと
自ら製剤していたり、
体のことを気遣い
食事のあり方も大切にしていたそうです。

 

最後に

細川忠興は父の幽斎と同じように
数々の武将に仕え、
君主に気に入られる器用さを持っていたのでしょう。

家族を愛す一方
容赦ないその行動には
忠興のまじめすぎた性格があったかもしれません。

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