明智光秀の娘(四女)の旦那「津田信澄」とは?

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津田信澄(つだのぶずみ)は
安土桃山時代に生きた武将です。

津田と名乗っていますが織田家系であり、
後に明智光秀の娘(四女)と結婚します。

 

この記事では
津田信澄の家族構成についてや、
どのような人生を歩んだのか
わかりやすくまとめていきます。

津田信澄について

津田信澄の誕生と家族構成

津田信澄は
1555年(弘治元年)
あるいは1558年(永禄元年)頃に誕生したとされています。

尾張の戦国大名である織田信秀の三男
織田信勝(信行)の嫡男として生まれました。

父・信勝の兄は織田信長であるため、
信澄にとって信長は叔父にあたります。

 

生まれて間もないころの1557年(弘治3年)、
父・信勝が謀反の企てを起こしたとして
叔父・信長によって殺されてしまいます。

このとき、
信澄を含む信勝の子供たちは助命され、
信長の命令により柴田勝家のもとで養育されました。

1570年(元亀元年)には
姉川の戦いで信長に敗れた佐和山城の城主
磯野員昌の養嗣子になります。
※養嗣子とは家督相続人となる養子のこと

幼名は、御坊、坊丸、於菊丸と複数あったようです。

 

津田信澄の初陣

元服し「信澄」と名乗り始めたのは
初陣だとされる1575年(天正3年)、
越前一向一揆征伐の頃だとされています。

この越前一向一揆では、
柴田勝家・丹羽長秀らと共に鳥羽城を攻撃し、
敵勢500~600を討ち取り陥落させる活躍を見せました。

津田信澄が城主となる

1578年(天正6年)には
養父・員昌が信長の叱責を受け逃げ出し、
所領地であった高島郡はそのまま信澄に渡って
明智光秀の縄張りで新たに築城した大溝城の城主となります。

ここから津田あるいは織田姓を名乗り、
信長の側近としての務めと、
信長の子・織田信忠配下の遊撃軍団の一員としても活動していました。

石山本願寺攻めや
荒木村重征伐にも参加したり、
安土城における相撲興行では
堀秀政、蒲生氏郷、青地与右衛門らと共に奉行を務めています。

その後も
四国攻め計画で大阪駐屯を命じられたり、
丹羽長秀とともに家康の接待を任されるなど
信長から信頼される家臣の一人であったようです。

津田信澄と明智家

1574年(天正2年)頃、
信澄は明智光秀の娘(四女)と結婚しており、
1579年(天正7年)には長男が生まれています。

しかし1582年(天正10年)、
義父・明智光秀が京都の本能寺、妙覚寺にいた
信長、信忠を襲撃する本能寺の変を起こしました。

信澄が明智光秀の娘婿であったため、
街中では信澄と明智光秀の共謀である
という噂が流れたことで、
信長の子・信孝と長秀は信澄を襲撃します。

大坂城千貫櫓にいた信澄は防戦するも、
丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られました。

享年は25もしくは28歳頃であったとされています。

 

最後に

津田信澄は織田家でありながら
父が謀反の企てたことで一時離れるも、
後に信長によく仕え信頼をしあえる間柄でした。

しかし、義父である明智光秀
本能寺の変を起こしたことで共謀者と思われ、
信澄は若くして殺されてしまいました。

今となれば明智光秀の謀反とは関係なく、
信澄は濡れ衣であったとされており、
きっと悔しい思いをしたことでしょう。

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