妻木煕子(明智 煕子)とは?【明智光秀の妻について。】

WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -

室町時代後期から安土桃山時代にかけて
妻木煕子(つまきひろこ)という女性が
この日本に存在していたとされています。

 

この女性は
明智光秀の正室(妻)となり
のちに明智煕子となった人物です。

 

この記事では
明智光秀の妻「妻木煕子」について
徹底的に調べてわかりやすくまとめました。

 

妻木煕子(明智煕子)の生涯について【明智光秀の妻の人生】

明智光秀の妻 〓子(ひろこ)

妻木煕子(明智煕子)の誕生時期【明智光秀の妻が生まれた時代について】

明智光秀の妻「妻木煕子」について
じつは正確な資料があまり残っていません。

妻木煕子の誕生時期は
おそらく室町時代後半の
1530年頃だと言われています。

 

妻木煕子の父親は
織田信長の家臣である妻木範熙です。

妻木煕子が明智光秀の妻になった時期

歴史上において妻木煕子は
明智光秀の妻としてとても有名です。

室町時代後半の天文14年(1545年)頃に、
明智光秀との婚約が決まったとされています。

妻木煕子が明智光秀の妻になる前のエピソード

妻木煕子が明智光秀の妻になる前に
こんなエピソードがあったとされています。

明智光秀との婚約後に、煕子は
疱瘡(ほうそう)にかかってしまい、
美しかった顔に痘痕が残ってしまう。

妻木家にとって明智光秀との縁談を
なくすわけにはいかないと思った父は
煕子によく似た妹の芳子を身代りに嫁がせようとします。

しかし、
明智光秀はすぐに妹であることを見破り、
「人の容貌は変わるが心の美しさは変わらない」
といって、煕子を正室(妻)として迎えたそうです。

 

明智光秀と結婚し妻になった後の妻木煕子(明智煕子)

明智光秀と妻木煕子が結婚した後、
長良川の戦いが起こります。
※長良川の戦いとは
斎藤道三斎藤義龍との争いです。

明智光秀は斎藤道三に味方し
この戦いに参加することになります。

しかし、この戦いで
斎藤義龍が勝利したため
明智光秀は美濃の本拠地を失い、
浪人となってしまいます。

 

流浪中でお金のない光秀は
連歌会を催す資金がなく困っていると、
夫に恥をかかすまいと
妻の明智煕子は自慢の黒髪を売って
お金を用立て明智光秀を助けたそうです。

明智光秀はこのことに大変感謝し、
明智煕子が亡くなるまでの間
側室を持たなかったとされています。

 

妻木煕子(明智煕子)の最期【明智光秀、妻との別れ】

明智光秀本願寺との決戦に参加した後、
過労で倒れ一時危篤状態にまで陥ります。

明智光秀の妻である明智煕子は
その明智光秀の看病を必死に行う。

その明智煕子の看病が効果を発揮し
2ヶ月後には前線復帰を果たすほど
明智光秀の体調は回復したそうです。

しかし、今度は明智煕子が
心労と疲労によって倒れ、
そのまま亡くなってしまったとのこと。

享年46歳または
42歳、36歳とも言われ、
はっきりとした年齢や
死因などについてはわかっていません。

 

妻木煕子(明智煕子)のお墓の場所【明智光秀の妻のお墓について】

明智光秀の妻「妻木煕子(明智煕子)」の
お墓の場所は西教寺です。

 

※この西教寺には
明智光秀のお墓もあります。

 

 

妻木煕子(明智煕子)と明智光秀の子供について

 

明智煕子と明智光秀との間には
3男4女の子供が誕生したと伝えられています。

しかし、
煕子の子供についての史料は
あまり残されていません。

 

諸説あり、
母は別であるという異説もあるものの、
長女が明智光春(秀満)の室、
次女が明智光忠の室、
三女・珠(細川ガラシャ)が細川忠興の室、
四女が織田信澄の室となったそうです。

また、
嫡男の十兵衛光慶(千代寿丸)、
次男の十次郎光泰、
三男に乙寿丸がいたと言われていますが不明な点が多くあります。

 

最後に

明智光秀の妻である
妻木煕子(明智煕子)とは
いったいどんな人だったのか?

なるべくわかりやすく解説しました。

 

妻木煕子(明智煕子)について
詳しい史料は残されていないものの、
様々なエピソードなどから
容姿は美しく、また心も美しい女性
であったことが推測されます。

 

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Copyright© なぜ、明智光秀。 , 2019 All Rights Reserved.