明智光秀が攻めた城「八上城」とは?【歴史をわかりやすく解説】

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八上城とはどんな城なのか
あなたは知っていますか?

 

いつ、誰が建てた城なのか、
また明智光秀と深く関連のある城として
八上城の歴史をわかりやすく解説していきます。

 

八上城とは?

八上城(やかみじょう)は1508年(永正5年)、
丹波国の国人である波多野元清が築城しました。

現在でいう兵庫県丹波篠山市にあり、
篠山盆地のほぼ中央南部寄りの高城山と
西隣の法光寺山に位置しています。

本城と支城が城下を挟み配置された
中世山城の典型的特長のある貴重な城だと言われています。

 

八上城の歴史

八上城の歴史について
4つの時代に分けて解説していきます。

  • 室町時代
  • 安土桃山時代
  • 江戸時代
  • 現代

 

室町時代

丹波で勢力を広げた戦国大名
波多野元清(稙通)が
応仁の乱で戦功をあげたのをきっかけに、
永正年間(1504~1521年)
多紀郡の郡代に就任した際、
八上城を築城し居城したのが始まりです。

15世紀後半には
高城山南西尾根先端部に奥谷城を築き、
城下町を奥谷に置ます。
16世紀前半には
高城山頂に八上城を本城として築き上げました。

1557年(弘治3年)に
松永久秀によって城が奪われたものの、
1566年(永禄9年)
元清(稙通)の孫にあたる波多野秀治が奪還します。

安土桃山時代

1575年(天正3年)、
織田信長の指示により
明智光秀が司令官として丹波攻めが開始されます。

 

明智光秀は城を包囲し和議を勧めるも
波多野氏らは応じず、
11回にわたる攻撃にもゆるがなかったそうです。

波多野氏らの巧妙な軍略と
自然の地形をうまく取り入れた
軍略的な陣地構築が、
光秀軍を寄せ付けませんでした。

長期戦となり
毛利氏や赤井氏の支援があったものの
兵糧攻めにより1579年(天正7年)に落城し、
波多野氏はとうとう滅亡してしまいました。
※兵糧攻め(ひょうろうぜめ)とは、食糧補給の道を断って敵の戦闘力を弱らせる攻め方

1582年(天正10年)の山崎の戦い直後、
明智光秀が亡くなった後は
羽柴秀勝や前田玄以の属城となります。

江戸時代

1602年(慶長7年)、
玄以の子の前田茂勝が入城するも
熱心なキリシタンであったために幕府に危険視されます。

そして1608年(慶長13年)、
幕府から改易を申し渡され
城から追い出されてしまいます。
※改易とは身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収するもの

その後に徳川家康の子である
松平康重が入城しますが、
篠山城を築城したため
1609年(慶長14年)に八上城は廃城となりました。

現代

八上城は廃城になるも
古風な中世式の構築物が
その後も地面や地中に残っていました。

 

2005年(平成17年)には
大阪歴史学会による保存運動が行われ、
兵庫県下では41件目の国の史跡に指定されています。

その指定理由として
中世の山城であるにも関わらず、
数多くの建築物などが
昔のままに残っている点が評価されたと言われています。

 

最後に

八上城は高城山の頂上付近あったため、
明智光秀が力攻めするにも難しい城だったそうです。

兵糧攻めによってなんとか和議を結ぶ際に
条件として明智光秀の母である「明智牧」を
人質として差し出したとも言われていますが、
真相はわかっていません。

 

そんな歴史ある城跡が
今も残っているのですから
一度は訪れてみたいですね。

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