藤原純友の乱(ふじわらすみとものらん)は
平安時代中期に起こった反乱です。
ほぼ同時期に起こった平将門の乱と
合わせて承平天慶の乱とも言います。
藤原純友の乱とは何か?
どのような反乱だったのか?などなど
藤原純友の乱について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
藤原純友の乱とは?
藤原純友の乱とは
939(天慶2)年に、藤原純友が
瀬戸内海で起こした反乱です。
藤原純友は、瀬戸内海に
出没していた海賊を制圧するために、
朝廷から伊予国(愛媛県)へ派遣されます。
そして国司という職として働きますが
任期が終わっても京都に戻りませんでした。
藤原純友は、瀬戸内海西部の
海賊集団を配下に置いたのです。
そして939年に日振島(ひぶりじま)を拠点として
反乱を起こし淡路(兵庫県)、讃岐(香川県)などの
国府を襲って大宰府を攻めるなどの勢いを示しました。
しかし941年に朝廷の命令を受けた
小野好古(おののよしふる)らによって、反乱は鎮圧されます。
藤原純友の乱の経緯
ここでは
藤原純友の乱が起こった経緯を
簡単に解説していきます。
海賊の登場【藤原純友の乱の経緯】
当時の瀬戸内海は、山陽、九州、
四国と京を結ぶ物資輸送の大動脈。
そんな瀬戸内海には、9世紀中ごろ以降
海賊が出没するようになります。
特に931年頃から海賊の活動が活発になり、
賊船1000艘が海上に浮かんで、物を奪ったり
殺害するなど問題が多発し、海上交通も
途絶状態となってしまいます。
この問題を解決するために、朝廷は
936年に藤原純友らを海賊制圧の名目で
伊予国に派遣することにしたのです。
海賊制圧のはずが、海賊支配【藤原純友の乱の経緯】
では、なぜ藤原純友は
海賊を支配して朝廷に背いたのでしょうか?
従来の説では
海賊たちが藤原純友を担ぎ上げて
党を結成し、新たな社会的位置づけを
要求して謀反を起こしたとされていました。
近年の研究の結果では、藤原純友が
海賊制圧の功績を上げたにも関わらず
朝廷から恩賞が与えられなかったことに
不満を持って、反乱を起こしたのでは
ないかと考えられています。
藤原純友ってどんな人?
藤原北家出身で、大叔父に藤原基経を
持ち、かなり位の高い血筋でした。
ところが、父親を早くに亡くしたため
後ろ盾がなくなり京での出世街道からは
外れてしまったのです。
最後に
藤原純友の乱とは何か?
どのような反乱だったのか?などなど
藤原純友の乱について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。