結論からいいますと
近松門左衛門の死因は病死です。
晩年の近松門左衛門は病気がちで
最後は慢性気管支炎で苦しみました。
- 近松門左衛門の誕生時期:1653年
- 近松門左衛門の命日:1724年1月6日
※近松門左衛門の最期の年齢は71歳
近松門左衛門の最期の年齢は71歳、この年齢は江戸時代だとかなり高齢なので、「近松門左衛門の死因は暗殺ではなく病死」というのは信憑性がありそうです💡
近松門左衛門はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は
江戸時代を生きた浄瑠璃、歌舞伎の作者です。
- 近松門左衛門の誕生時期:1653年
- 近松門左衛門の命日:1724年1月6日
※近松門左衛門の最期の年齢は71歳
近松門左衛門はどんな人なのか?
何をした人だったのか?などなど
近松門左衛門の生涯や
その代表作品についても
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
近松門左衛門の誕生日
近松門左衛門は、1653年(承応2年)に
越前国の武士の杉森信義の次男として誕生。
※近松門左衛門の具体的な誕生日は不明です。
近松門左衛門の本名は杉森信盛(のぶもり)で、
幼い頃に家族で京都に移り住んだそうです。
近松門左衛門と竹本義太夫
近松門左衛門は、若い頃に公家に仕えていたようで、その生活で古典や仏教の知識を身に着けます。
20代で武士の身分を捨てて
芝居の世界へ入りました。
近松門左衛門は浄瑠璃の語りである竹本義太夫と出会い、竹本義太夫のために『出世景清』や『曾根崎心中』など、多くの人形浄瑠璃の台本を手掛けます。
近松門左衛門と坂田藤十郎
近松門左衛門には次第に歌舞伎界からも
台本の依頼が入ってくるようになります。
歌舞伎役者である坂田藤十郎とも出会い、
坂田藤十郎のために『傾城仏の原』など
歌舞伎の台本を30本以上も手掛けています。
近松門左衛門の国姓爺合戦
近松門左衛門が63歳で手掛けた
『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』は
特に日本で大人気となった作品です。
近松門左衛門の最期
近松門左衛門は
1724年1月6日(享保9年11月22日)に
亡くなります。享年71歳。
近松門左衛門の最期の作品は、関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)です。
近松門左衛門の死因は病死です。
晩年の近松門左衛門は病気がちで
最後は慢性気管支炎で苦しみました。
- 近松門左衛門の誕生時期:1653年
- 近松門左衛門の命日:1724年1月6日
※近松門左衛門の最期の年齢は71歳
近松門左衛門の最期の年齢は71歳、この年齢は江戸時代だとかなり高齢なので、「近松門左衛門の死因は暗殺ではなく病死」というのは信憑性がありそうです💡
近松門左衛門の代表作品
ここでは
近松門左衛門の代表作品を
紹介していきます。
- 曾根崎心中
- 国姓爺合戦
これらの作品について
以下で簡単に解説します。
曾根崎心中【近松門左衛門の代表作品】
『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』は
1703年初演の浄瑠璃作品です。
近松門左衛門の
”世話物”の傑作です。
世話物とは、武士や貴族ではなく
町民など一般市民を主人公とした作品。
大阪にある曾根崎天神で起きた
お初と徳兵衛の心中物語であり、
全3巻で構成されています。
国姓爺合戦【近松門左衛門の代表作品】
『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』は
1715年初演の”時代物”の浄瑠璃作品です。
明(中国)の臣下の鄭芝龍(ていしりゅう)と、
日本人の田川氏の娘との間に生まれた
混血児で国性(姓)爺と呼ばれた豪傑、
鄭成功(ていせいこう)の話を脚色しています。
日本だけでなく、中国までを
舞台にした構想雄大な作品です。
17か月も連続で上演される程
時代物の大人気作品となります。