エドガー・アラン・ポーさんについて。

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Edgar Allan Poe
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エドガー・アラン・ポーとテロリズム: 恐怖の文学の系譜 (フィギュール彩)

エドガー・アラン・ポーさんは
アメリカの小説家・評論家です。

 

1809年1月19日にアメリカで生まれ
1849年10月7日に40歳で亡くなりました。

 

この記事では
エドガー・アラン・ポーさんについて紹介します。

 

エドガー・アラン・ポーさんの経歴

エドガー・アラン・ポーの子供時代

エドガー・アラン・ポーさんは
俳優の両親の元で生まれました。

しかし幼くして、
父の蒸発と母の死を経験し、
ジョン・アランさんの家に引き取られます。

 

エドガー・アラン・ポーさんは
ジョン・アランさんの故郷の町、
アーヴィンやロンドンなどの学校に通い
語学や詩学に励んでいて、
将来への第一歩を踏み出していました。

ヴァージニア大学へ入学

それからは
ヴァージニア大学へ入学し、
ヨーロッパの様々な言語や、
各国の現代文学などを熱心に勉強します。

ギャンブルが原因で借金をかかえる

しかし、
エドガー・アラン・ポーさんは
小遣いを稼ぐために
賭博に手を出すようになります。

その賭博にのめりこんでしまい、
逆に借金を抱えてしまい、
大学を辞めざるをえなくなります。

その後は、ボストンへ向かい、
偽名を使ってアルバイトをしますが、
それでも追いつかず、陸軍に入ります。

詩集を出版

陸軍から士官学校へ
入ろうとする間も詩を書いており、
アル・アーラーフ」という詩が
複数の雑誌に掲載されて
詩集を出版することができました。

ジョン・アランと喧嘩し、勘当

その後エドガー・アラン・ポーさんは
士官学校へ入ることになりますが
アランさんと喧嘩になり、勘当されてしまいます。

遺産相続の望みがなくなった
エドガー・アラン・ポーさんは、
自暴自棄になり
士官学校をサボって放校処分を受けます。

作家活動は継続的に続けるエドガー・アラン・ポー

それからは、
叔母のボルティモアさんの家に
居候(いそうろう)をしながら、
短編小説を書き始めます。

 

雑誌にいくつかの作品が掲載され
壜の中の手記」が最優秀作となり
賞金50ドルを獲得します。

さらに
ボルティモアさんの娘と結婚をし、
雑誌には短編小説や批評を掲載して、
発行部数を7倍にするという功績を残します。

しかし
創刊者と不仲になったり
喧嘩をして仕事を辞めたりと
しばらく紆余曲折をします。

そんな時期を経て
「グレムアズ・マガジン」という
新しい雑誌の編集者となり、
有名な「モルグ街の殺人」を掲載します。

この雑誌は、創刊したばかりにも関わらず
発行部数3万7000部という快挙を成し遂げます。

死と結婚と死

1847年に、
妻ヴァージニアに先立たれてしまいますが、
2年後にかつての恋人と再会し、婚約します。

しかし結婚前に
エドガーさんは亡くなりました。

エドガーさんの死因は
アルコール中毒、心臓病など
色々な憶測がされていますが、謎のままです。

エドガー・アラン・ポーの評価、評判

エドガー・アラン・ポーさんの小説は、
母国アメリカよりも
フランスで高く評価されました。

詩や小説の計算された美的効果を主張し、
フランス象徴派をはじめ
推理小説にいたるまで大きな影響を与えます。

 

アメリカで評価されたのは、
エドガーさんの死後約1世紀を経てからとなりました。

 

エドガー・アラン・ポーさんの著書

黒猫・アッシャー家の崩壊―ポー短編集〈1〉ゴシック編 (新潮文庫)

エドガー・アラン・ポーさんの
著書はいくつもあります。

この「黒猫・アッシャー家の崩壊ポー短編集」は、
短編小説です。

エドガーさんは
短編小説をたくさん書いたため、
短編集が多く出版されています。

孤高の作者のゴシック色の強い作品を中心に、
代表作6編を収録しています。

まとめ

この記事では
エドガー・アラン・ポーさんについて紹介しました。

 

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