北条時宗ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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大きな足と戦う人
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北条時宗 前編 (SPコミックス)

 

北条時宗(ほうじょうときむね)とは
鎌倉時代中期の武将、政治家です。

誕生時期:1251年6月5日
死亡時期:1284年4月20日

 

 

元寇を退けたことで知られる武将で
大河ドラマの主人公にもなりました。

 

北条時宗とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
北条時宗について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

北条時宗ってどんな人?

北条時宗―史上最強の帝国に挑んだ男 (角川選書)

北条時宗の誕生日

北条時宗は
1251年6月5日(建長3年5月15日)
五代執権の北条時頼次男として生まれます。

執権=将軍の補佐や、幕府の庶務の総監。

 

母は、執権の補佐役を務めていた
北条重時の娘である葛西殿です。

 

北条時宗と後継者

兄に北条時輔がいましたが、
兄は側室との間の子であったので
北条時宗が父の後継者となります。

 

わずか6歳であった北条時宗は元服、
10歳頃には小侍所別当に就任して
翌年には安達義景の娘である
堀内殿(覚山尼)結婚します。

 

北条時宗の第8代執権

1263年に父の北条時頼が亡くなります。

翌年に6代執権であった北条長時が出家
北条政村が7代執権になると、北条時宗は
執権の補佐を務める連署に就任します。

そこから従五位上に叙任されて
左馬権頭、但馬権守を経て相模守に。

 

そして1268年に左馬権頭を辞任し、
18歳で第8代執権となります。

 

北条時宗と元

1268年の正月、高麗の使節が
元の国書を持って大宰府を訪れます。

元では、クビライ・ハーン(フビライ・ハン)
モンゴル皇帝に即位していた時期です。

 

国書は、蒙古への服従を求める内容です。

しかし鎌倉幕府は返事をせずに、
兵糧を備えたり、九州の警備の強化など
戦をする支度を始めたのです。

 

北条時宗と二月騒動

元との戦準備をしている最中、
国内で内輪揉めが起こります。

1272年に起きた二月騒動で、
北条時宗の兄である北条時輔
謀反(裏切り)を企てたのです。

 

やはり兄でありながらも、
弟の北条時宗が、北条家の主君や
執権など権力の座に就いたことに
対する不満があったのです。

 

しかしこの騒動に勝利した北条時宗は、
北条時章や北条教時など北条一族内の
反対勢力をほぼ一掃することができたのです。

 

北条時宗と元寇(文永の役)

1274年、元軍が襲来します。

これは元寇(げんこう)もしくは
蒙古(もうこ)襲来といいます。

激戦の末に元軍の進撃を阻止します。

この一度目の元寇は
文永の役と呼ばれています。

 

北条時宗と元寇(弘安の役)

翌年には
降伏を勧める使節らが来日しますが、
北条時宗は使節団を処刑、さらに1279年に
来日した使節団も処刑してしまいます。

 

1281年、二度目の蒙古襲来です(弘安の役)。

一度目の元寇に対して、元は
数倍の規模の兵を引き連れたそうです。

 

弘安の役では、北条時宗の名で
作戦指示を出し、御家人に指揮をさせます。

2か月近くの奮戦の末、元軍は
台風の影響や流行病などで混乱し、
ふたたび壊滅します。

 

北条時宗はなんとかメンツを保つことができました。

 

北条時宗の最期

戦後、北条時宗に多くの難題が残ります。

それは、元寇で戦った御家人に対する
恩賞の土地が足りなくなったのです。

さらに国防強化による財政難
そして自分自身の病気にも悩まされます。

 

北条時宗は
1284年4月20日(弘安7年4月4日)
出家すると同時に、病死します。享年34歳。

死因は、結核もしくは心臓病と伝わっています。

 

最後に

北条時宗と安達泰盛―新しい幕府への胎動と抵抗 (日本史リブレット人)

 

北条時宗とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
北条時宗について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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