伊能忠敬ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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伊能忠敬の像
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伊能忠敬: 日本を測量した男 (河出文庫)

 

伊能忠敬(いのうただたか)
江戸時代商人、測量家です。

誕生時期:1745年2月11日
死亡時期:1818年5月17日

 

伊能忠敬とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
伊能忠敬について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

伊能忠敬ってどんな人?

伊能忠敬 (コミック版世界の伝記)

伊能忠敬の誕生日

伊能忠敬は
1745年2月11日(延享2年1月11日)
上総国(現在の千葉県)で名田の経営を請け負う
名主であった小関五郎左衛門家に婿入りした
神保貞恒の子どもとして誕生します。

伊能忠敬の初名は神保三治郎です。

 

伊能忠敬と家業立て直し

17歳のときに佐原(さわら)の酒造家の
伊能家の婿養子となります。

しかし伊能忠敬が伊能家に入った時、
家業はうまくいっておらず、衰えて
危機的な状況だったそうです。

伊能忠敬は倹約に徹すると共に
薪の卸売業を江戸に設けたり、
米穀取り引きの仲買などを行います。

その結果、伊能忠敬の才覚によって
約10年間で家業を盛り返したと伝わります。

 

伊能忠敬と天明の大飢饉

伊能忠敬は36歳で名主となります。

そして1783年の天明の大飢饉では
地域の貧しい民たちの救済を行って
有名な名主として知れ渡るようになります。

 

伊能忠敬と天文学

その後、伊能忠敬は49歳で隠居して
幼い頃から興味を持っていた天文学
本格的に学ぶために江戸へ出ます。

江戸で、伊能忠敬は当時30歳で
天文学者の第一人者と言われていた
高橋至時(よしとき)に弟子入りをして
昼夜を問わず勉強しました。

また、観測機器に精通した間重富からも
指導を受けて、伊能忠敬は大金を投じて
自宅を本格的な天文観測所に改造します。

そして日本で初めて
金星の子午線(しごせん)経過の観測
成功しています。

※子午線=ある地点の天頂と天の北極と南極とを通過する天球上の大円。

 

伊能忠敬と日本地図

天文学を学んでいくうちに伊能忠敬は
地球の大きさを求める過程で、
日本の正確な地図を描くことが必要だと感じます。

当時、55歳であった伊能忠敬は
第一次測量の為に蝦夷地(北海道)へ向かいます。

この時、伊能忠敬と一緒に
息子1人、弟子2人、下男2人と測量器具を
運ぶ人足3人の計9人と馬2頭が同行。

軽量方法は、一歩の歩幅が70㎝になるよう
訓練を事前に行っており、数人で歩いた歩数の
平均値を出して距離を導き出すというものでした。

 

危険である海岸線なども果敢に測量し、
夜は宿で天体観測を行って、昼の測量結果を
比較して誤差を修正したそうです。

 

伊能忠敬らは
蝦夷地の第一次測量をはじめとして
伊豆、東日本、東海、近畿、四国、九州、
伊豆諸島、そして江戸などと10回に分けて
日本全国の測量を行ったのです。

その結果、伊能忠敬が歩いた距離は
約4万kmとされ、55歳でありながら
なんと地球1周分の距離を歩いたのです。

 

伊能忠敬の最期

しかし、伊能忠敬は日本地図の
製作中に持病の慢性気管支炎が悪化し、
1818年5月17日(文化15年4月13日)
急性肺炎によって亡くなります。

弟子たちが地図の製作を受け継いで
1821年に『大日本沿海輿地全図』
『大日本沿海実測録』を完成させました。

 

伊能忠敬の軽量日数は3737日、
天体観測地点数は1203と記録されています。

 

最後に

伊能忠敬: 歩いて日本地図をつくった男 (別冊太陽 日本のこころ 261)

 

伊能忠敬とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
伊能忠敬について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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