金栗四三(かなくりしそう)は
明治時代から昭和時代までを生きた
マラソン選手、全国マラソン連盟会長です。
誕生時期:1891年8月20日
死亡時期:1983年11月13日
日本で有名な「箱根駅伝」を創設し
日本マラソンの父と呼ばれた人物で、
2019年の大河ドラマでも話題になっていますね。
金栗四三とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
金栗四三について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
金栗四三ってどんな人?
金栗四三の誕生日
金栗四三(かなくり しそう)は
1891(明治24)年8月20日に
熊本県玉名郡和水町(なごみまち)で誕生します。
金栗四三は、男4人、
女4人の8人兄弟で7番目に生まれます。
また、父親の金栗信彦が
43歳のときに生まれたために
”四三”と名付けられたそうです。
金栗四三は5歳頃までは
とてもひ弱な体であったと伝わっています。
金栗四三の幼少時代
金栗四三は10歳になると
進学をきっかけに自宅から学校までの
山道を越える通学路を毎日かけあしで登校します。
その距離、往復で約12㎞あったそうです。
小学校卒業後の金栗四三は
親からの要望もあり中学校に進学。
成績はとても優秀で、特待生にもなり
家族の期待に応えていたそうです。
そして1910年、現在の筑波大学である
東京高等師範学校に入学をします。
金栗四三のマラソン才能の開花
東京高等師範学校に入学した金栗四三は
1年生の秋に行われたマラソン大会で
全校で第3位というという結果を出します。
さらに翌年には東京、羽田で行われた
オリンピック国内予選大会に参加をし、
当時の世界記録をなんと27分も上回る
大記録を出して優勝したのです。
このことで、金栗四三は日本で初めての
オリンピック日本代表の選手に選出されます。
金栗四三とストックホルム大会
1912年にスウェーデンの都市である
ストックホルムで行われたオリンピックは、
日本が初めて参加したものでした。
開催地に行くまでには、船やシベリア鉄道を
経由して17日間もかかったと言われています。
そのため、いざマラソン大会に参加すると
長旅や環境の違いによる疲れだけでなく
当日の猛暑などによって金栗四三は
途中で意識不明となり脱落してしまいます。
死者も出るような過酷なレースであったそうです。
金栗四三とオリンピック
無念の思いを残した金栗四三は
オリンピック制覇に向けて練習に専念。
しかし1916年に開催予定であった
オリンピックベルリン大会は
第一次世界大戦のために中止になります。
4年後のアントワープ大会では16位、
1924年のパリの大会の時はすでに33歳。
意識を失ってしまい、途中棄権をします。
帰国後は、最前線の選手活動を引退します。
金栗四三と日本マラソン界
金栗四三は、ストックホルム大会で
敗れた後から日本のマラソン界の
発展にも注目し、活動します。
1918年に、金栗四三と
マラソン選手の沢田英一、棒高跳び選手の
野口源三郎の3人が集まります。
そのときにサンフランシスコから
ニューヨーク間のアメリカ横断駅伝の構想が
話題となり、国内でアメリカ横断駅伝の
予選会を行うこととなります。
金栗四三と箱根駅伝
それに応じた次の4校によって
1920年に「四大専門学校対抗駅伝競走」が開催されます。
- 早稲田
- 慶応
- 明治
- 東京高等師範
これが、現在のお正月の恒例行事である
「箱根駅伝」のはじまりなのです。
金栗四三の最期
生涯をかけて日本のマラソン界の
発展に力を尽くした金栗四三は、
1983(昭和58)年11月13日に亡くなります。享年92歳。
最後に
金栗四三とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
金栗四三について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。