結論からいいますと
ガンジーの死因は暗殺(銃殺)です。
※ガンジーを暗殺した犯人:ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の人たち
- ガンジーの誕生日:1869年10月2日
- ガンジーの命日:1948年1月30日
※ガンジーの最期の年齢は78歳
ガンジーは胸腹部に銃弾を3発受けて
その場に倒れてそのまま死亡しました。
ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の人達は
イスラム教徒(ムスリム)に対して甘すぎる
ガンジーの姿勢に対して猛烈に非難していました。
つまり宗教的な理由がガンジー暗殺の動機でした。
ガンジーはどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
ガンジー(マハトマ・ガンディー)は
インドの弁護士、政治指導者です。
1869年10月2日にインドで生まれ
1948年1月30日に78歳で亡くなりました。
以下ではガンジーの生涯についてわかりやすく簡単に紹介します。
※ガンジーの死因考察にもぜひお役に立てください💡
ガンジーの名前について
ガンジーの本名は
モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーで
「マハトマ・ガンディー」は
インドの詩聖タゴールさんから
贈られたとされている尊称です。
マハトマとは、
【偉大なる魂】という意味です。
弁護士をしながら活動に参加
ガンジーは
南アフリカで弁護士をしながら
公民権運動に参加するなど、様々な活動を行います。
インド独立のために活動するガンジー
インドに帰国後、
インドの独立のために
独立運動を指揮します。
ガンジーは、
インド独立活動をする際
「非暴力、不服従」を提唱していました。
イギリスとインド
第一次世界大戦が起こると、
インドはイギリスに協力しました。
なぜならイギリスは
インドの自治の拡大を約束したからです。
しかし
戦争が終わりイギリスが勝利しても
インドの自治の拡大はほとんど進行しませんでした。
さらに、ローラット法によって
数百人のインド人が虐殺される
アムリットサル事件が起こります。
これは1919年に起きた出来事です。
ちなみにこのローラット法とは
イギリスがインドの民族運動を
抑えるために制定した法律です。
- 令状なしでの逮捕できる
- 裁判なしでの投獄を認める
などといった
イギリスにとって都合のいい
めちゃくちゃな法律だったのです。
ガンジーは、イギリスに失望します。
投獄されてもインドのために戦うガンジー
その後もガンジーは
何度も投獄されながらも
インドの独立のために、
不服従運動を繰り返します。
ガンジー、イギリスへの反抗
第二次世界大戦中、
最初日本軍は優勢でした。
イギリスは、日本軍が
インドへ接近することを警戒します。
イギリスは再び
インドに「自治拡大を認める」などの条件を提示し、
インド人の協力を促しますが
ガンジーはイギリスの魂胆を見抜きこれを拒否します。
インドの独立について
1858年のムガル帝国滅亡後、
1877年にインド帝国が成立してから
インドはイギリスにずっと支配されていました。
第二次世界大戦終結後、
国力の衰退したイギリスに対し、
インド人たちは独立運動を行います。
そして1947年8月15日
ついにインドが独立をはたします。
ガンジーの最期
1948年、ガンジーは
ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の
者たちによって暗殺されてしまいます。
ガンジーは胸腹部に銃弾を3発受けて
その場に倒れてそのまま死亡しました。ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の人たちは
イスラム教徒(ムスリム)に対して甘すぎる
ガンジーの姿勢が猛烈に非難していました。つまり宗教的な理由がガンジー暗殺の動機でした。
ガンジーは78歳で亡くなりますが、
植民地解放運動や人権運動において
世界中に大きな影響を与えました。
ガンジーの著書
ガンジーはいくつもの著書を出しています。
ここでは2つ紹介します。
- ガンジー自伝
- ガンジー・自立の思想 自分の手で紡ぐ未来
これらの著書を以下で解説します。
ガンジー自伝
「ガンジー自伝」は
ガンジーが書いた自伝本です。
真実と非暴力を信奉しつづけ、自身の激動の日々を収めます。
ガンジー・自立の思想 自分の手で紡ぐ未来
「ガンジー・自立の思想
自分の手で紡ぐ未来」は
ガンジーが書いた経済学本です。
本書は、あまり知られていなかった
ガンジーの独特の経済学を展開します。
一人一人が自立して生きることを
最大の願いとしたガンジーの思想と
その実現に生涯を捧げたガンジーの熱意が現れています。