鑑真(がんじん)とは?どんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

WRITER
 
鑑真の像
この記事を書いている人 - WRITER -

鑑真 ポスター 壁掛け グッズ 雑貨

 

鑑真(がんじん)
日本が奈良時代の時期に
日本の外にある唐(当時の中国)から
海をこえてやって来たです。

誕生時期:688年
死亡時期:763年6月25日

 

仏教の戒律を伝えるために
鑑真は日本にきたとされています。

 

鑑真とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
鑑真について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

 

鑑真(がんじん)ってどんな人?【生涯をざっくりと分かりやすく解説】

鑑真―海をこえてきた盲目の仏教僧 (よんでしらべて時代がわかるミネルヴァ日本歴史人物伝)

  • 鑑真の誕生日
  • 鑑真、渡日を決意する
  • 鑑真の日本への後悔、5回にわたる失敗
  • 鑑真、ついに日本に到着
  • 鑑真の最期

鑑真の誕生日

鑑真は688年(持統天皇2年)頃に
唐(現・中国)の楊州江陽県で生まれます。
※鑑真の誕生日は明らかになっていません。

 

鑑真は14歳のときに
大雲寺の智満について出家し、
18歳で道岸から菩薩戒を受けて
20歳のとき長安で修業を積みます。

さらに弘景から律宗や天台宗を学び
のち楊州の大明寺で律の講義をします。

 

鑑真、渡日を決意する

日本からやってきた僧の栄叡と普照らから
「日本に戒律を伝えてほしい」と言われて
鑑真は日本に渡る決意をしたそうです。

■戒律(かいりつ)…仏教で修行者や僧団が
守らなければならない規律のこと。

 

奈良時代の日本だと、
自分で出家を宣言した
私度僧という僧侶が多かったとされています。

 

僧は重い税金を免除されることもあり、
僧侶になりたい人は少なくなかったとか。

そのため聖武天皇は僧侶に位を与える
伝戒師制度を普及させるための僧侶を探していました。

 

鑑真の日本への後悔、5回にわたる失敗

鑑真、海をわたる (絵本版おはなし日本の歴史 6)

 

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、
日本に渡りたい者はいないかと
尋ねますが、危険を冒してまで
希望する弟子はいませんでした。

そのため鑑真自らが日本に渡ることを決意し、
弟子21人を連れて渡日することにしたのです。

 

その後日本への渡海を試みましたが、
弟子の密告や、暴風、遣唐使に乗船を
拒絶されたりなど5回にわたって失敗します。

途中で栄叡も逮捕・死去したり、激しい疲労で
鑑真は両目を失明してしまったりと
当時日本に渡るのは非常に大変だったことが分かります。

 

鑑真、ついに日本に到着

鑑真 戒律を伝えた僧 (仏教コミックス―仏教を伝えた人と道)

753年、日本から来た遣唐使の船に
鑑真はこっそりと乗り込みます。

鑑真の乗った船は遭難しながらも
やっと鹿児島県に到着します。

鑑真は12年の歳月をかけて、
ようやく日本にたどり着いたのです。

 

そして翌年、
普照と共に平城京に入った鑑真は、
戒壇の設立と、戒律を教えることを
一任され、東大寺に住むこととなります。

 

 

そして鑑真は
聖武上皇孝謙(こうけん)天皇

400人の僧尼に菩薩戒を教えます。

 

 

その後鑑真は、
戒壇院を建立して
戒律制度を整備します。

 

759年頃、
新田部親王の旧邸宅跡が与えられ
鑑真は唐招提寺を創建し、戒壇を設置します。

 

 

また、鑑真は戒律だけでなく
彫刻や薬草などの知識も豊富だった為、
これらの知識を日本に伝えています。

他にも、鑑真は悲田院を作り
貧民の救済にも積極的に取り組んだと言われています。

 

鑑真の最期

国宝 鑑真和上展 唐招提寺金堂平成大修理記念 公式図録

 

763年、鑑真は唐招提寺
亡くなります。享年76歳。

死去を惜しんだ弟子の忍基が造った
鑑真の彫像が、唐招提寺に現存しています。

この鑑真の彫像は
日本最古の肖像彫刻として
国宝に指定されています。

 

最後に

鑑真 キーホルダー 両面 グッズ

 

鑑真とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
鑑真についてなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.