長岡京とは何か?幻の都?【歴史をわかりやすく簡単に解説】
長岡京(ながおかきょう)は
奈良時代に日本の都(みやこ)となった場所です。
都(みやこ)とは、簡単にいうと
現在でいう首都(東京)のことです。
※長岡京の場所は現在の京都です。
近代の研究だと、長岡京は
10年間だけ存在した「幻の都」ともされています。
長岡京とは何か?
どんな都城だったのか?などなど
長岡京について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
長岡京とは何か?【簡単にわかりやすく解説】
長岡京(ながおかきょう)は
延暦3年(784年)11月11日から
延暦13年(794年)10月22日までの約10年間、
日本の都城として機能していました。
じつは、日本の都は
平城京から長岡京へ遷都され、
その後に平安京へ遷されたのです。
長岡京への遷都と、平安京への遷都は
いずれも桓武天皇が行っています。
第50代桓武天皇は、平城京から「水陸ノ便ナルヲモッテ都ヲコノ邑ニ 還ス」と長岡京へ都を移されました。
しかし都は再び平安京へ移され、 長岡京は10年の短命の都で終わります。引用:長岡京市観光協会
長岡京はどんな城だった?場所はどこだった?
長岡京は、現在の京都府
向日市、長岡京市、西京区に
存在していたとされています。
向日市にある「長岡宮跡」は
国の史跡に指定されています。
長岡京は、東西4.3㎞、南北5.3㎞と
平城京や平安京に匹敵する
広大な敷地だったそうです。
政治の中心である長岡宮は、
諸国から多くの人々が往来する
日本の政治や経済、文化の
中心地だったと考えられています。
長岡京の歴史
長岡京に関わった人たちの死や、
長岡京から平安京へ遷都した経緯など
長岡京の歴史について以下で解説します。
- 桓武天皇の決意
- 藤原種継の暗殺事件
- 早良親王の祟り(たたり)
- そして長岡京は幻の都に
桓武天皇の決意【長岡京の歴史】
奈良時代後半、
仏教寺院が力をつけ始めていたことに
当時の天皇「桓武天皇」は悩んでいました。
そして桓武天皇は、
人々の心を全く新しく
切り替えることを目的として
平城京から長岡京へ遷都を決意します。
藤原種継を建設責任者として
都の移動についてほとんどのことを任せます。
藤原種継の暗殺事件【長岡京の歴史】
しかし遷都した翌年(785年)、
藤原種継が暗殺されてしまいます。
その事件に関与しているとして、
桓武天皇の弟である早良(さわら)親王が
皇太子を廃され、流罪となります。
これを不服としていた
早良親王ですが、その後絶命します。
早良親王の祟り(たたり)【長岡京の歴史】
早良親王の死後、桓武天皇の
近親者に次々と不幸が襲います。
また世間でも自然災害が多発し、
早良親王の祟りであると言われたのです。
10年もの間の建設作業で、
大路、小路なども整備され、大内裏の
殿舎や東西の市などもほとんど
完成状態になっていたと考えられています。
しかし、あらゆる災難が続いたことで
長岡京の造営工事はついに中止されます。
桓武天皇も祟りだと考えたようで、
新たな都への遷都を決意したようです。
そして長岡京は幻の都に
平安京へ遷都することが決まり、
長岡京の主な建物は壊されて
新たな都の地へと移されます。
そして長岡京の地は、少しずつ
田園地域へと変化していき、10年間の
都はやがて「幻の都」と呼ばれるようになったのです。
最後に
長岡京とは何か?
どんな都城だったのか?などなど
長岡京について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。