渡辺崋山ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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アイデアが爆発している男性
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渡辺崋山

 

渡辺崋山(わたなべかざん)
江戸時代後期を生きた武士、画家です。

誕生時期:1793年10月20日
死亡時期:1841年11月23日

 

渡辺崋山とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
渡辺崋山について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

渡辺崋山ってどんな人?

異才の改革者 渡辺崋山

渡辺崋山の誕生日

渡辺崋山(わたなべ かざん)は
1793年10月20日(寛政5年9月16日)
江戸詰めの田原(現在の愛知県)藩士である
渡辺定通長男として誕生します。

 

当時の田原藩は、財政難だった為
家臣である渡辺家も貧しい生活でした。

そのため、渡辺崋山は8歳で
若君が寝る際に話し相手となる
お伽役(とぎやく)として働きます。

妹や弟も働きに出なければならず、
渡辺崋山は絵を描く内職をしながら
学問に励んだと言われています。

 

絵画の才能も開花させながら、
朱子学や農業など、あらゆる知識を吸収したのです。

 

田原藩士の渡辺崋山

渡辺崋山は30歳で、田原藩の
家老職に就任して藩政改革に尽力します。

優秀な藩士の登用では、家格よりも
役職をもとに給料を与える「格高制」を
導入し、藩士たちの士気を高めます。

 

1836年に起きた天保の大飢饉では、
事前に食料を蓄える倉を築いていたことや、
凶荒心得書』という災害時の
マニュアルを自ら刊行しています。

 

政治のあり方や役人の態度を正して
倹約の徹底、領民救済の優先などを徹底し、
財政困難な田原藩でありながら
餓死者を出さなかったという有能ぶりを発揮。

幕府にも目をかけられ、全国で
唯一表彰を受けたということです。

 

渡辺崋山と蘭学

政治家として活躍する一方で、
渡辺崋山は外国事情に興味を持ち、
蘭学者である高野長英らと共に
蘭学や兵学の研究も行っていました。

 

渡辺崋山は西洋諸国が強大な力を持って
アジアに侵入してくることを感じました。

そのため幕府の行う異国船打ち払い令や、
鎖国が危険であると主張し、開国や
貿易をするように強調したのです。

 

渡辺崋山とモリソン号事件

1837年、モリソン号事件が起こります。

これは、日本人の漂流民が偶然
アメリカの商船であるモリソン号に救助されます。

モリソン号は、漂流した日本人を届けつつ
対日通商や不況を目指して浦賀に来航します。

しかし「異国船打ち払い令」によって日本側が
モリソン号に砲撃をし、退去させたのです。

 

渡辺崋山と蛮社の獄

この事件を受けた渡辺崋山は、
江戸幕府の排外政策に異を唱えます。

西洋事情書である『慎機論』
という本を書こうとしますが
田原藩士であるという自身の立場で
江戸幕府を真っ向から非難することに
気が引けて、未発表のままとなります。

 

しかし渡辺崋山は『慎機論』の存在を
幕府側に知られてしまい、
捕らえられていしまいます。

 

処刑まではされませんでしたが、
田原での蟄居(謹慎)を命ぜられます。

 

渡辺崋山の最期

そして渡辺崋山は、自身のせいで
田原藩主に迷惑がかかるのを恐れて
切腹してしまいます。

 

渡辺崋山は
1841年11月23日(天保12年10月11日)
亡くなります。享年49歳。

 

最後に

渡辺崋山 (新潮日本美術文庫)

 

渡辺崋山とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
渡辺崋山について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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