源頼朝の死因について。

源平武将伝 源頼朝 (コミック版 日本の歴史)

源頼朝は1192年に
鎌倉幕府を開いた人物として有名です。

 

源頼朝は「落馬」が原因で
命を落としたとされていますが
実は死因について諸説あるため、定かではありません。

 

この記事では
源頼朝の死因について
徹底解説していきます。

 

目次

源頼朝の死因について

源頼朝(二) (吉川英治歴史時代文庫)

源頼朝は
1199年2月9日(建久10年1月13日)に
53歳で亡くなったとされています。

1198年12月27日に源頼朝は
相模川で催された橋供養からの帰路、
落馬してしまい体調を崩したことが
死因ではないかと言われています。

しかし、この死因は定かではないのです。

 

鎌倉幕府の前半を扱った代表的な歴史書である
「吾妻鏡(あづまかがみ)」にも、源頼朝の死から
前後3年の記録が書かれていないのです。

この吾妻鏡には
源頼朝が亡くなってから13年後に
落馬死したという記述があります。

さらに他の史料によって
源頼朝の死因は異なります。

 

ただ、吾妻鏡は鎌倉幕府を知るための
有力な歴史書とされている為、源頼朝の死因は
一般的に落馬であったと考えられています。

 

また、源頼朝の亡くなった日にちである
「1199年2月9日(建久10年1月13日)」については
他の諸書で一致している為、ほぼ間違いないとされています。

 

 

源頼朝の死因として考えられているもの

源頼朝 (中世武士選書38)

源頼朝の死因の候補をまとめると
以下のことが考えられています。

  • 落馬による脳内出血
  • 落馬による尿崩症
  • 暗殺
  • 溺死

落馬による脳内出血【源頼朝の死因】

 

源頼朝の死因は、落馬したときに
頭部を損傷して脳内出血を
引き起こしたものという説です。

また、脳卒中によって
落馬して亡くなったという説もあります。

 

落馬による尿崩症【源頼朝の死因】

源頼朝の死因は、落馬した際に頭部を
損傷し、脳の中枢神経に異常をきたして
尿崩症(にょうほうしょう)になったものという説です。

尿崩症とは腎臓の機能が低下してしまい
多量の尿が輩出してしまう病気です。

現在では治療方法もありますが、
当時はこの病によって亡くなることも多かったようです。

 

暗殺説【源頼朝の死因】

源頼朝の死因は暗殺されたという説です。

吾妻鏡による源頼朝の死についての
記述が13年後という不自然な点から、
”吾妻鏡を編集した者にとって源頼朝の死が
不都合だったのでは?”という考え方ですね。

 

吾妻鏡を編集したのは、
鎌倉幕府の中心人物とされているので、
そうなると源頼朝は、北条氏によって
暗殺されたのではないか
と考えられます。

 

溺死【源頼朝の死因】

源頼朝の死因が溺死という説です。

これについては、「猪隈関白記」で
源頼朝の死因を”飲水の病”と記している為です。

また、「承久記」では”水神の祟り”とあります。

 

そして落馬が死因としている吾妻鏡にも、
”相模川橋供養”の際の事故ということで
源頼朝の死には水を連想させる言葉が多いのです。

なお溺死の場合は、
相模川に落ちて溺れて水を飲みすぎた為と考えられています。

 

最後に

源頼朝と鎌倉 (人をあるく)

この記事では
源頼朝の死因について徹底解説しました。

 

 

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