承和の変とは何か?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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承和の変(じょうわのへん)
平安時代初期に起きた政変です。

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この時の皇太子は退位させられ、
藤原氏による最初の他氏敗訴事件です。

 

承和の変とは何か?
どのような政変だったのか?などなど
承和の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

目次

承和の変とは?

図説「生きる力」は日本史に学べ (青春文庫)

承和の変とは842(承和9)年
起きた政治的陰謀事件です。

 

仁明天皇は
伴健岑(とものこわみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)らが
謀反を企てたとして、2人を流罪に。

さらに仁明天皇の皇太子である
恒貞(つねさだ)親王を皇太子から退かせます。

 

この政変後、藤原良房は大納言に昇進し、
仁明天皇の第1皇子である道康親王が
皇太子となりました。

道康親王とは、のちの文徳天皇です。

 

この事件は、藤原良房が企てた
政治的陰謀事件と考えられています。

 

承和の変の経緯

道康親王を天皇にしたい藤原良房【承和の変】

当時、仁明天皇の次に天皇になる
皇子(皇太子)は恒貞親王とされていました。

 

しかし、藤原良房という人物は
道康親王を天皇にしたかったのです。

なぜなら道康親王の母である
藤原順子は、藤原良房の妹。

つまり藤原良房と道康親王は
伯父と甥の関係にあたります。

道康親王が天皇になれば
藤原良房は天皇の伯父として、
強大な権力を握ることができるのです。

 

藤原良房は皇太子の恒貞親王を排除して、
道康親王を天皇にしたいと考えます。

 

淳和天皇、嵯峨上皇の死【承和の変】

藤原良房が道康親王を皇太子にするための
計画を考えていたであろう時期に、
いくつかの出来事が起こります。

 

まず840(承和7)年に、
恒貞親王の父である淳和天皇が病死

さらに嵯峨上皇も病気を患い、
死期が近いことが分かります。

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実際嵯峨上皇は、淳和天皇死去の
2年後に亡くなっています。

 

嵯峨上皇や淳和天皇がいなければ、
当時権力を握っていた藤原良房の力で
道康親王を皇太子にすることも
不可能ではなかったのです。

 

謀反の疑いで逮捕【承和の変】

この状況の中、先に行動に移したのは
恒貞親王派である伴健岑と橘逸勢でした。

橘逸勢らは、恒貞親王と共に
朝廷の権力が及ばない東国へ逃げて、
対抗できるくらいの勢力を拡大しよう
と考えたのです。

 

しかし、この計画が藤原良房に漏れてしまいます

 

藤原良房は、仁明天皇に彼らの計画を伝えます。

そして仁明天皇は、橘逸勢と伴健岑に
謀反の疑いがあるとして逮捕。

 

 

恒貞親王は首謀者ではなかったため、
流罪は免れましたが、皇太子の立場は退けられます

 

こうして道康親王が皇太子となり、
藤原良房は、邪魔者の排除に成功。

文徳天皇の伯父として強大な権力を握ることができました。

 

最後に

嵯峨野は薫風に揺れて: 橘嘉智子と承和の変

承和の変とは何か?
どのような政変だったのか?などなど
承和の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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