大石良雄(おおいしよしお/よしたか)は江戸時代前期の武士です。
- 誕生時期:1659年4月24日
- 死亡時期:1703年3月20日
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の通称で知られる赤穂浪士の首領として活躍しました。
この記事では
大石内蔵助とはどんな人だったのか
家紋や子孫についてもわかりやすく解説していきます。
大石内蔵助(大石良雄)とは?【生涯をざっくりわかりやすく解説】
- 大石内蔵助(大石良雄)の誕生日
- 大石内蔵助(大石良雄)と昼行灯
- 大石内蔵助(大石良雄)と赤穂事件
- 大石内蔵助(大石良雄)の最期
大石内蔵助(大石良雄)の誕生日
大石内蔵助(大石良雄)は
1659年(万治2年)4月24日に
赤穂藩家老(現在の兵庫県)の
大石良昭の長男として生まれます。
幼くして父親を亡くした為、祖父の養子となり
祖父の死後は赤穂藩の家老見習いとして働きます。
大石内蔵助(大石良雄)と昼行灯
21歳のときに正式な筆頭家老となりますが、
大石内蔵助平凡な人物であったそうで
”昼行灯”というあだ名がつけられています。
昼行灯とは、
昼は行灯(照明)を使う必要がないことから、
役に立たない人を表現しています。
1692年に東軍流剣術を学び、
翌年には京都で伊藤仁斎から儒学を学びます。
大石内蔵助(大石良雄)と赤穂事件
1701年、幕府から天皇の接待役を
任じられた主君の浅野長矩(あさのながのり)が
刀傷事件を起こします。
浅野長矩は切腹、浅野家も取り壊しという
重い処分に対して、相手の吉良義央(きらよしひさ)は
無罰という幕府の処置の差に、
赤穂浪士たちは納得しませんでした。
大石内蔵助は浅野家の名誉回復を
幕府に嘆願しましたが、聞き入れてもらえず
浅野家は解体となってしまいます。
主君の名誉回復が叶わないと分かった
大石内蔵助は翌年に旧赤穂藩士の
同志たちを率いて江戸本所に向かいます。
そして仇敵である吉良邸に討ち入って吉良義央の首をとることに成功したのです。
大石内蔵助(大石良雄)の最期
大石内蔵助は、
1703年3月20日(元禄16年2月4日)に
切腹して亡くなります。享年45歳。
大石内蔵助は、この赤穂事件を取り上げた
「仮名手本忠臣蔵」という人形浄瑠璃、歌舞伎で有名になりました。
大石内蔵助(大石良雄)の家紋について
大石内蔵助は、赤穂事件で吉良邸に
討ち入る際に、大石家の家紋である
「右二つ巴」の兜頭巾を着用しています。
大石内蔵助の家系は、平安時代に活躍をした
藤原秀郷の子孫と称していて、この巴紋を使用していたと伝わっています。
大石内蔵助(大石良雄)の子孫について
大石内蔵助の子孫についてですが、
大石内蔵助には5人の子どもがいます。
- 大石良金
- 大石良以(吉之進)
- 大石良武(大三郎)
- 大石くう
- 大石るり
大石良金は1703年、父と共に切腹して
赤穂浪士最年少で亡くなっています。
次男の大石良以も19歳で亡くなる為
三男の大石良武(大三郎)が大石家の跡を
継いで広島の浅野家に仕えます。
現在は、大石内蔵助から11代目の大石浩史さんが奈良県庁に勤めています。