長屋王(ながやおう)は飛鳥時代から奈良時代までを生きた皇族です。
※皇族(こうぞく):天皇と血のつながりがある人
- 長屋王の誕生時期:684年
- 長屋王の死亡時期:729年3月20日
長屋王は、日本で大きな力をもつ
皇族勢力の代表的人物となりましたが
長屋王の変によって自殺する運命をたどります。
長屋王ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 長屋王の誕生日
- 長屋王と太政大臣
- 長屋王の政治政策
- 長屋王と藤原四兄弟の対立
- 長屋王と辛巳事件
- そして、長屋王の変が起こる
長屋王の誕生日
長屋王は、684年(天武天皇13年)に誕生します。
※676年(天武天皇5年)誕生の説もあります。
長屋王の具体的な誕生日は不明です。
- 長屋王の父:高市皇子
- 長屋王の母:御名部皇女
高市皇子は天武天皇の長男で、
御名部皇女は天智天皇の皇女であるため
長屋王は天皇本家の家筋にとても近い存在でした。
※家筋(いえすじ):家の血筋。 家柄の良否を決める基準になる。
長屋王と太政大臣
長屋王は天皇家筋の中でも
特に優遇されていたため
順調に昇進して権力を高めていきます。
- 709年に従三位・宮内卿に、
- 710年には式部卿に、
- 718年には中納言を通り越して大納言に
長屋王は、天皇の血筋が近いだけでなく
優れた政治能力もあったことから、
当時の権力者である藤原不比等からも期待されていたようです。
そして720年に藤原不比等が亡くなると
長屋王は翌年に右大臣となって政界の主導者に躍り出ます。
※右大臣:太政官の長官。簡単にいうと、かなり権力をもった役人
長屋王の政治政策
長屋王は藤原不比等の政治路線を受け継ぎ、
当時問題となっていた民の貧困化などの
対策を打ち出して社会の安定化と
律令制の維持を図ろうとします。
他にも、政治に反発する蝦夷や隼人の
反発などを速やかに鎮圧するなど、長屋王の働きは優秀だったそうです。
長屋王と藤原四兄弟の対立
724年、
聖武天皇が即位したのと同時に
長屋王は最高位の左大臣に任ぜられ、
政界の重鎮となります。
長屋王は、日本の政治を動かす
とても大きな権力を手に入れたということです。
それと同時期に
日本で権力をもっていたのは
藤原不比等の子どもたち。
つまり
藤原四兄弟です。
長屋王とこの藤原四兄弟の間で
次第に対立が激しくなっていきます。
長屋王には、元明上皇の娘である
吉備内親王(きびないしんのう)という妻がいて
二人の間には子ども(男の子)もいまいた。
次期天皇の候補に長屋王の息子が
浮上することを恐れた藤原四兄弟にとって
長屋王とその息子たちは目障りな存在となっていました。
長屋王と辛巳事件
724年、辛巳事件(しんしじけん)が起こります。
聖武天皇は、
母である藤原宮子の権威を高めるため
「大夫人」という尊称を与える勅命を出します。
じつは、この勅命(天皇の命令)には、
藤原氏の地位を確立しようと画策する
藤原四兄弟が裏で携わっていました。
この聖武天皇の勅命に対して
長屋王らが反論を開始します。
↓
次のような内容を天皇に提案します。
大夫人という呼び名は法令的に良くない。
法令に照らし合わせれば、文書上では
「皇太夫人」、口頭では「大御祖」と呼ぶのが正しい。よって勅命は撤回すべきである。
この事件で、天皇の勅命が
律令法の規定に反してる理由で撤回されたことと、
藤原氏は体面を潰される結果となり、
長屋王と藤原四兄弟の対立は激化することとなります。
そして、長屋王の変が起こる
そしてついに
729年3月16日(神亀6年2月12日)、
長屋王の変が起こります。
長屋王の変ときくと
長屋王が事件を起こした犯人だと
勘違いしてしまう人もいるかもしれません。
しかし違います。
長屋王の変とは
藤原氏によって長屋王を倒すために
仕組まれた政治的陰謀事件です。
「密告」によって長屋王は
朝廷(政府)から裏切りの疑いをかけられたのです。
この密告を策略したのが、
対立していた藤原四兄弟だったそうです。
長屋王は軍隊に屋敷を囲まれてしまい、
妻、息子らと共に自害に追い込まれました。
飛鳥時代、奈良時代の頃の話なので
真実は全然違う可能性ももちろんあります。
むしろ伝わっている歴史が、
すべて正しいことの方が少ないかもしれません。
長屋王の変については
こちらの記事でさらに詳しく解説しています。
↓
最後に
この記事では
長屋王とはどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。