藤原不比等ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
藤原不比等(ふじわらのふひと)は
飛鳥時代から奈良時代初期までを生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部
誕生時期:659年
死亡時期:720年9月13日
藤原不比等は
藤原鎌足(中臣鎌足)の子ども(次男)であり、
藤原氏繁栄の基礎を作った人物です。
この記事では
藤原不比等とはどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
目次
藤原不比等ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 藤原不比等の誕生日
- 藤原不比等と天武天皇【壬申の乱の後】
- 藤原不比等と大宝律令
- 藤原不比等と皇族との婚姻
- 藤原不比等と養老律令
- 藤原不比等の最期
藤原不比等の誕生日
藤原不比等は、659年(斉明天皇5年)に
藤原鎌足の子ども(次男)として生まれます。
※藤原不比等の具体的な誕生日は不明です。
父の藤原(中臣)鎌足は、
中大兄皇子と大化の改新を行った人物です。
大化の改新の時の功績などから、
当時、天皇となった中大兄皇子(天智天皇)は
中臣鎌足が死亡する直前に藤原氏の姓を与えました。
藤原不比等と天武天皇【壬申の乱の後】
藤原不比等は、
父(藤原鎌足)の死後に起きた壬申の乱で、
多くの親族が朝廷から追放された為に
下級役人からのスタートを余儀なくされます。
その後、藤原不比等は草壁皇子に仕えて
草壁皇子の息子である軽皇子(天武天皇)を即位させるために大きく貢献します。
藤原不比等と大宝律令
藤原不比等は、
父の藤原鎌足の遺志を継いで
天皇中心の国づくりを目指したそうです。
その実現に向けて、
刑罰や政治の在り方を定めた
律令(当時の日本の法律)を新しくすることを決意。
700年に藤原不比等は、
刑部親王(おさかべしんのう)と共に
「大宝律令」の編集にとりかかり
翌年701年に制定されることになりました。
その際の藤原不比等の
法律や文筆の才能が認められて、
政治の表舞台で活躍することとなります。
藤原不比等と皇族との婚姻
藤原不比等の後妻は
橘三千代(たちばなのみちよ)という女性で、
宮廷では強い権力を持っていました。
先妻との長女である藤原宮子(ふじわらのみやこ)を
文武天皇に嫁がせて、二人の間に
首皇子(後の聖武天皇)が生まれます。
さらに橘三千代との娘である
藤原光明子(のちの光明皇后)を首皇子に嫁がせます。
光明皇后は、日本で初めて
皇族以外で皇后になった人物です。
また、藤原不比等には4人の息子がいました。
- 藤原武智麻呂(むちまろ)
- 藤原房前(ふささき)
- 藤原宇合(うまかい)
- 藤原麻呂(まろ)
彼らは藤原四兄弟と総称されます。
藤原不比等の死後は
この4兄弟が朝廷(政府)を支配することとなります。
藤原不比等と養老律令
708年、藤原不比等が右大臣に任ぜられます。
※右大臣とは、太政官の長官。
簡単にいうと、かなり地位の高い役人です。
藤原不比等は
710年の平城京遷都にも関わり
氏寺の山階寺(やまなしでら)を
奈良に移して興福寺と改めます。
また藤原不比等は、
718年に養老律令の編集にも取りかかります。
しかしこの養老律令が施行される前に
藤原不比等は病で倒れてしまったそうです。
藤原不比等の最期
藤原不比等は
720年9月9日(養老4年8月3日)に死亡します。享年63歳。
藤原不比等の死因は、
病気だった可能性が高いとされています。
最後に
この記事では
藤原不比等とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
藤原不比等について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。