天智天皇(中大兄皇子)の死因とは?弟に暗殺された!?【その生涯 (誕生から最期まで) もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
天智天皇(中大兄皇子)の死因は不明です。
- 天智天皇(中大兄皇子)の誕生時期:626年
- 天智天皇(中大兄皇子)の死亡時期:672年1月7日
※天智天皇(中大兄皇子)の最期の年齢は46歳
病気がきっかけで死亡した説や
山中での暗殺説もありますが
詳細は明らかになっていません。
天智天皇(てんじてんのう)は、飛鳥時代を生きた日本の第38代天皇。
柴犬
目次
天智天皇(中大兄皇子)の死因は暗殺?2つの説をわかりやすく解説
天智天皇(中大兄皇子)は、671年10月 (天智天皇10年9月) に病気で倒れます。
その後、天智天皇(中大兄皇子)の病気はなかなか良くならず、672年1月7日 (天智天皇10年12月3日)に近江大津宮で死亡したといわれています。
※近江大津宮:668年(天智天皇7年)に天智天皇が建てた寺院 (現在はすでに無くなっている)
平安時代末期に作成された歴史書「扶桑略記」によると、天智天皇は山中で行方不明になったと書かれているため、天智天皇(中大兄皇子)の死因として天武天皇側による暗殺説も考察できます。
天智天皇(中大兄皇子)が病気で苦しんでいる時期に、弟の大海人皇子は剃髪して僧侶となり吉野へ移動。
つまり弟の大海人皇子は当時、政治面で兄を助けるような行動をしていません。
※天武天皇(大海人皇子)は天智天皇(中大兄皇子)の弟で、第40代天皇。
ちなみに天智天皇(中大兄皇子)の病気は、ハンセン病だったと伝わっています💡
天智天皇(中大兄皇子)の死因は明らかになっていませんが、病気による死亡説と政治的な争いによる暗殺説の2つが有力な説だといえますね
柴犬
天智天皇(中大兄皇子)ってどんな人?何をした人?【生涯 (誕生から最期まで) をわかりやすく簡単に】
天智天皇(中大兄皇子)とは
いったいどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
天智天皇(中大兄皇子)の生涯ついて
わかりやすく簡単に解説していきます。
天智天皇(中大兄皇子)の死因考察に、きっと役立つかと思います💡
柴犬
- 中大兄皇子の誕生日
- 中大兄皇子と蘇我入鹿
- 中大兄皇子と中臣鎌足
- 中大兄皇子と大化の改新
- 中大兄皇子が天皇になる (天智天皇誕生)
- 「中臣鎌足」を「藤原鎌足」へ
- 天智天皇(中大兄皇子)の最期
中大兄皇子の誕生日
中大兄皇子(天智天皇)は、626年(推古天皇34年)に誕生します。
中大兄皇子(天智天皇)の母は斉明天皇
中大兄皇子(天智天皇)の父は舒明天皇だと伝わっています。
※天智天皇の具体的な誕生日は不明です。
天武天皇は同じ両親の弟にあたります。
そして中大兄皇子(天智天皇)には、子どもがたくさんいました。
例えば持統天皇や弘文天皇などです。
- 持統天皇:天智天皇と遠江娘の娘
- 弘文天皇:天智天皇と伊賀采女宅子娘の息子
天智天皇は異母兄の古人大兄皇子の娘である
倭姫王(やまとひめのおおきみ)を皇后(妻)としますが
生涯2人の間には、子どもはいませんでした。
中大兄皇子と蘇我入鹿
聖徳太子が亡くなった後には
蘇我馬子が権力を握ることとなります。
その後、蘇我馬子が亡くなった後には
その息子である蘇我蝦夷と孫の蘇我入鹿が
大臣という地位で日本の政治を行います。
そして、次期天皇の候補だった聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおう)が、蘇我入鹿によって自害に追い込まれます。
山背大兄皇子の死を知った後、
中大兄皇子(天智天皇)は動きだします。
中大兄皇子と中臣鎌足
中大兄皇子(天智天皇)は
蘇我氏に不満を持っていた中臣鎌足と
協力して蘇我氏を倒す計画を立て始めます。
645年、中大兄皇子は中臣鎌足らと
母である斉明天皇(皇極天皇)の御前で
蘇我入鹿を暗殺するという政変を行います(乙巳の変)。
蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷も自殺した為、皇極天皇の弟である孝徳天皇を即位させます。
中大兄皇子と大化の改新
そしてその翌年 (646年)から、中大兄皇子(天智天皇)は孝徳天皇と斉明天皇の両天皇の皇太子となり、政治の中心人物として天皇中心の国づくりを目指します。
※皇太子=皇位継承の第一順位の人。
この一連の改革が大化の改新です。
中大兄皇子は長い間、天皇には即位せずに、皇太子として政治で活躍します。
孝徳天皇の子ども「有間皇子」など、
次期天皇に有力な候補者もいましたが、
中大兄皇子は様々な手段を用いて処刑に追い込んだと言われています。
中大兄皇子が天皇になる (天智天皇誕生)
661年に斉明天皇が亡くなります。
そして668年に中大兄皇子は
都を大津宮(現在の滋賀県)にうつして
第38代天智天皇として即位します。
天皇として在位したのは約4年程ですが
天智天皇はこの時代の改革者であり、
今でも日本の歴史に名を残しています。
「中臣鎌足」を「藤原鎌足」へ
669年、中臣鎌足が亡くなる前日に、天智天皇(中大兄皇子)は中臣鎌足を内大臣に任じて、藤原の姓をあたえます。
なぜ中臣鎌足が死亡する前に
「藤原」の姓に変える必要があったのか?
気になる人もいるかもしれません。
どういうことかというと
病死の危機を迎えた中臣鎌足に対して
天智天皇は今までの功績をたたえたいと考えた。
そして天智天皇は、
今まで活躍してくれた中臣鎌足に
中臣鎌足が生まれた場所の地名にちなんで、
「藤原」の姓を与えたということです。
こういった流れで
中臣鎌足は死の直前に
「藤原鎌足」になりました。
そのため、
生きていた頃は「中臣鎌足」の名が使用され
「藤原氏の祖」としてを指す場合に「藤原鎌足」が使用されます。
天智天皇(中大兄皇子)の最期
天智天皇(中大兄皇子)は、672年1月7日(天智天皇10年12月3日)に死亡します。享年46歳。
天智天皇(中大兄皇子)の死因として病気説や暗殺説などがあり、不明です。
どちらにしても病気だった可能性は高く、その病名はハンセン病であったと伝わっています。