橘諸兄(たちばなのもろえ)は飛鳥時代から奈良時代までを生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部
- 橘諸兄の誕生時期:684年
- 橘諸兄の死亡時期:757年
橘諸兄ってどんな人?
- 橘諸兄の誕生日
- 橘諸兄と臣籍降下(しんせきこうか)
- 橘諸兄の全盛期
- 橘諸兄と藤原仲麻呂
- 橘諸兄の最期
橘諸兄の誕生日
橘諸兄は、684年(天武天皇13年)に
美努王(みのおう)と橘三千代との間に生まれます。
※橘諸兄の具体的な誕生日は不明です。
橘諸兄の最初の名前は
葛城王(かつらぎおう)です。
- 橘諸兄の父「美努王」
- 橘諸兄の母「橘三千代」
橘諸兄の母である橘三千代は
藤原不比等の妻でもあります。
※橘三千代と藤原不比等の間に藤原光明子(光明皇后)が誕生。(701年ごろ)
橘諸兄の父である美努王は、敏達天皇の子孫です。
つまり橘諸兄は、豪族でした。
※豪族(ごうぞく):天皇と血のつながりがある人
光明皇后などの権力者たちと
深いつながりをもつ橘諸兄は
729年以降、順調に昇進していきます。
※昇進(しょうしん):地位があがっていくこと
橘諸兄と臣籍降下(しんせきこうか)
733年に、橘諸兄の母「橘三千代」が死去。
橘諸兄は天皇の血を引く「豪族」ですが
736年にこの「豪族」の身分を失います。
皇族がその身分を離れ、
姓を与えられ臣下の籍に降りることを
臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
※臣下(しんか):天皇に仕える者
736年にこの臣籍降下がされ、
橘諸兄は弟の佐為王(さいおう)と
皇族の身分を離れることに。
当時は藤原4兄弟の全盛期で、
藤原の姓を名乗ることができたにも関わらず
橘諸兄は母の橘三千代の姓である
橘宿禰(すくね)を継いで橘諸兄と改名します。
橘諸兄の全盛期
737年4月、
当時流行していた天然痘によって
政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ
中納言などの議政官が次々と亡くなります。
主な公卿(日本の役人の最高幹部)が
鈴鹿王と橘諸兄だけとなったため、
急遽、橘諸兄は大納言に任命されます。
翌年の738年、橘諸兄は
正三位、右大臣に任ぜられ
政治を自由に操れるくらい
日本のトップクラスの権力者になります。
そして国政を担当して
唐から帰国した遣唐使の玄ボウや
吉備真備(きびのまきび)らを顧問に
抜擢して、聖武天皇を補佐。
また橘諸兄のすすめによって
聖武天皇は都を恭仁京(くにきょう)に遷して
大仏建立などにもあたります。
このように聖武天皇の行動の裏には
橘諸兄の存在が大きく影響していました。
さらに橘諸兄は
743年に従一位・左大臣に叙任されて
749年には正一位に任ぜられます。
※正一位:トップの位(くらい)
生きている間に正一位に叙された人物は
歴史上でも非常に少なく、橘諸兄の快挙といえるでしょう。
橘諸兄と藤原仲麻呂
しかし749年、
孝謙天皇が即位すると
橘諸兄の立場が危ぶまれ始めます。
国母の光明皇后の威光を背景に
大納言兼紫微令の藤原仲麻呂(なかまろ)の
発言力が増すようになっていきます。
755年、橘諸兄は酒の席において、
上皇について無礼の発言をしたとし、
朝廷に対する裏切りの気配があるなどと
ありもしない悪口を言われてしまいます。
※聖武天皇が病で寝込んでいた時期の出来事
聖武上皇は取り合いませんでしたが、
橘諸兄は辞職せざるをえませんでした。
橘諸兄は藤原仲麻呂に実権を奪われ、756年に官職を辞めて隠居します。
橘諸兄の最期
757年1月30日(天平勝宝9年1月6日)、
橘諸兄は亡くなります。享年74歳。
最後に
橘諸兄とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
橘諸兄について
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。