吉備真備ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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カタカナとカメ
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吉備真備の世界 (岡山文庫)

 

吉備真備(きびのまきび)とは
飛鳥時代から奈良時代までを生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部

誕生時期:695年
死亡時期:775年11月3日

 

なんと
日本語の「カタカナ」の発明者は
この吉備真備だといわれています。

吉備真備はとても優秀で
唐(当時の中国)から最先端の知識を持ち帰り、
日本文化の基礎を作った偉人といえる人物。

 

吉備真備とはどんな人だったのか
何をした人なのか、などなど
吉備真備について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

※吉備真備の故郷「岡山県倉敷市真備町」には
「吉備真備駅」と名付けられた駅があります。

 

吉備真備ってどんな人?

実像 吉備真備

  • 吉備真備の誕生日
  • 吉備真備と入唐
  • 吉備真備と橘諸兄
  • 吉備真備と藤原広嗣の乱
  • 吉備真備と鑑真
  • 吉備真備と藤原仲麻呂の乱
  • 吉備真備の最期

吉備真備の誕生日

吉備真備は、695年(持統天皇9年)
備中国下道軍(現在の岡山県)で豪族だった
下道圀勝楊貴氏の子どもとして生まれます。
※豪族(ごうぞく):大きな富や勢力を持つ一族

 

下道圀勝の子どもなので
吉備真備の昔の名前は
下道真備(しもつみちのまきび)でした。

※吉備真備の具体的な誕生日は不明です。

 

吉備真備と入唐

717年に、吉備真備は
唐への留学生として抜擢され、
阿倍仲麻呂玄昉(げんぼう)らと共に唐に入国します。
※唐(とう)とは、当時の中国のことです。

当時20代前半であった吉備真備は
唐の地で経書や史書のほか天文学や音楽、
兵学など幅広く学び、734年に帰国。

唐から帰国する際には、
多くの書物や楽器を日本に持ち帰ってきています。

 

吉備真備と橘諸兄

日本へ帰国後、吉備真備と玄昉らは
聖武天皇光明皇后に目をかけられ、
735年には、従八位下から一挙に
10階昇進をして正六位下となります。

737年には従五位上にまで昇りつめます。

  • 従八位(じゅはちい)
  • 正六位(しょうろくい)
  • 従五位(じゅごい)

とは、当時の身分を表す基準です。
※現在でも、「位(くらい)が高い」
などのように使われることがあります。

 

そして738年に橘諸兄
右大臣に任ぜられ政権を握ると、
吉備真備は玄昉と共に重用されます。
※重用(じゅうよう):人を重要な地位に用いること。

 

吉備真備は橘諸兄の知的指導者(ブレーン)として
唐文化の輸入に努めるなどして大いに活躍します。

 

吉備真備と藤原広嗣の乱

しかし740年、九州にいた藤原広嗣
吉備真備や玄昉らを排除することを
主張して、大宰府で反乱を起こします。
※大宰府(だざいふ):現在の福岡県太宰府市

この反乱は、藤原広嗣の乱と呼ばれて
敗れた藤原広嗣は処刑されてしまいます。

ちなみに藤原広嗣は藤原式家の一族でした。

  • 藤原南家:藤原武智麻呂が元祖
  • 藤原式家:藤原宇合が元祖

※藤原武智麻呂と藤原宇合は、藤原不比等の子どもです。

この反乱の結果、
藤原広嗣のいた藤原式家は一時衰えます。

かわって、藤原南家が勢力を得て
孝謙天皇即位には藤原仲麻呂が権力を握り
吉備真備は筑前守(現在の福岡県)に左遷されます。
左遷(させん):今までの地位よりも低い地位におとすこと(中心部から地方に移すこと)

 

藤原仲麻呂は藤原武智麻呂の子ども(次男)。
なので、藤原南家の人。

藤原広嗣は藤原宇合の子ども(長男)。
なので、藤原式家の人。

  • 藤原南家:藤原不比等の子ども(長男)「藤原武智麻呂」が元祖
  • 藤原式家:藤原不比等の子ども(三男)「藤原宇合」が元祖

 

吉備真備と鑑真

752年、吉備真備は
遣唐副使となって再び唐に入国して
阿倍仲麻呂とも再会します。

前回の留学とは違って
今回の吉備真備の目的は中国の僧である
鑑真を日本へ連れて帰ることでした。

753年、鑑真と共に屋久島へ漂着し
無事に遣唐使の任務を果たしたのです。

 

吉備真備と藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)

764年、孝謙天皇に抑圧された
藤原仲麻呂が反乱を起こします。

藤原仲麻呂の乱、恵美押勝の乱と言います。

 

この乱で吉備真備は
中衛大将として追討軍を指揮します。

また、唐で学んだ兵法なども生かして
優れた軍略で乱の鎮圧に功績を挙げます。

 

その後、吉備真備は
称徳天皇の下で右大臣にまで昇進をして
左大臣の藤原永手と共に政治を行います。

 

吉備真備は、学者の地位から大臣に昇りつめたのです。

「学者でありながら、政治の中枢まで上り詰めた」
そんな偉業を達成した偉人は
吉備真備と菅原道真の2人がとても有名です。

 

吉備真備の最期

771年、吉備真備は右大臣の職を辞しています。

その後の暮らし方などは不明ですが
775年11月3日(宝亀6年10月2日)
吉備真備は亡くなります。享年83歳。

 

奈良県にある奈良教育大学の構内には、
吉備真備の墓と伝えられる吉備塚古墳が現存しています。

 

また、吉備真備の故郷である
「岡山県倉敷市真備町」には
「吉備真備駅」という駅がつくられました。
※1999年(平成11年)1月11日に誕生

  • 駅名の読み方:吉備真備駅(きびのまきびえき)
  • 町名の読み方:真備町(まびちょう)

 

最後に

実像 吉備真備 (22世紀アート)

 

吉備真備とはどんな人だったのか
何をした人なのか、などなど
吉備真備について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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