藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)とは
飛鳥時代後期から奈良時代までを生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部
- 誕生時期:706年
- 死亡時期:764年10月21日
藤原仲麻呂は、淳仁朝以降は改名しており
藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)の名でも知られています。
藤原仲麻呂とはどんな人なのか
何をした人なのか?などなど
藤原仲麻呂について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
藤原仲麻呂ってどんな人?
- 藤原仲麻呂の誕生日
- 藤原仲麻呂と橘諸兄
- 藤原仲麻呂と孝謙天皇
- 藤原仲麻呂と橘奈良麻呂の乱
- 藤原仲麻呂と淳仁天皇
- 藤原仲麻呂の乱
- 藤原仲麻呂の最期
藤原仲麻呂の誕生日
藤原仲麻呂は706年(慶雲3年)に
藤原南家の始祖である藤原智麻呂の
次男として生まれます。
※藤原仲麻呂の具体的な誕生日は不明です。
藤原仲麻呂と橘諸兄
当時は聖武天皇の時代でした。
聖武天皇の妻である光明皇后は、
中臣鎌足の子の藤原不比等の娘で
皇族以外で初めて皇后となった女性です。
しかし737年、天然痘の流行で
光明皇后の後ろ盾となっていた
藤原四兄弟が相次いで病死。
- 藤原智麻呂(藤原仲麻呂の父)
- 藤原房前
- 藤原宇合
- 藤原麻呂
このことにより、
藤原家は大きく衰退します。
その流れで橘諸兄(たちばなのもろえ)が、
一挙に右大臣にまで昇進して、
国政を担うまでの力を手にいれます。
藤原仲麻呂と孝謙天皇
しかし749年、
聖武天皇が譲位して
孝謙天皇が即位します。
孝謙天皇は718年(養老2年)に
聖武天皇と光明皇后との間に生まれた子供です。
つまり孝謙天皇は
藤原仲麻呂の従兄弟(いとこ)にあたります。
そういった関係もあり
藤原仲麻呂は中納言を飛び越えて
一気に大納言にまで昇進します。
従兄弟(いとこ)である孝謙天皇と、
叔母である光明皇后からの両支持により
藤原仲麻呂は政権と軍事を掌握して
橘諸兄の権力をしのぐようになったのです。
藤原仲麻呂は
東大寺の廬舎那仏の鋳造を行ったり
盛大な大仏開眼供養会を行ったりと、
仏教信仰に厚い光明皇后を支援します。
一方755年、橘諸兄は酒の席で、
朝廷に対する裏切りの気があるなどと
ありもしない悪口を言われてしまい、辞職させられます。
藤原仲麻呂と橘奈良麻呂の乱
辞職されられた橘諸兄には息子がいました。
その息子の名は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)。
父を辞職に追いやった藤原仲麻呂を
橘奈良麻呂は恨み、そして、殺害を計画します。
しかし臣下らの密告により、
藤原仲麻呂は未然に反乱を防ぎ、
橘奈良麻呂一味の443人を処罰するという大事件に。
これは橘奈良麻呂の乱と呼ばれています。
この事件によって藤原仲麻呂は
邪魔者を一掃して、最高権力者となります。
藤原仲麻呂と淳仁天皇
758年、孝謙天皇が譲位して
淳仁(じゅんにん)天皇が即位します。
後ろ盾に光明皇太后がいた藤原仲麻呂は
名前を「藤原恵美押勝」と改めて、
淳仁天皇の下でも実権を握ります。
しかし760年に
光明皇太后が亡くなり
大きな打撃となります。
またこの頃、
孝謙上皇の寵愛する道鏡が現れて
孝謙上皇は、淳仁天皇と藤原仲麻呂を
抑圧するようになります。
このことに焦りを感じた藤原仲麻呂は、
孝謙上皇と道鏡を排除しようと考えます。
藤原仲麻呂の乱
藤原仲麻呂は自ら兵の総指揮官となり
孝謙上皇のお咎めを告発して、
孝謙上皇排除の許可を得ようとします。
しかし、すでにこの計画が
孝謙上皇側に漏れていました。
孝謙上皇側は少数精鋭で奇襲を仕掛け
藤原仲麻呂は敗退してしまいます。
藤原仲麻呂の最期
藤原仲麻呂は
764年10月17日(天平宝字8年9月18日)に
捕らえられて、斬首されます。
藤原仲麻呂の一族はことごとく処刑されました。
最後に
藤原仲麻呂とはどんな人なのか
何をした人なのか?などなど
藤原仲麻呂について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。