中臣鎌足(藤原鎌足)ってどんな人?何をした人?【子孫についても解説】

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中臣鎌足(なかとみのかまたり)
飛鳥時代政治家です。

誕生時期:614年
死亡時期:669年11月14日

中臣鎌足と藤原鎌足は同じ人物。

中臣鎌足(藤原鎌足)は、
最大氏族「藤原氏」の始祖なのです。
※始祖(しそ):その家系の1番最初の人

 

この記事では
中臣鎌足(藤原鎌足)とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
中臣鎌足(藤原鎌足)について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

※中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫についても解説しています。

 

中臣鎌足ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

蘇我入鹿・中臣鎌足・天智天皇 (ぎょうせい学参まんが歴史人物なぜなぜ事典)

  • 中臣鎌足の誕生日
  • 中臣鎌足と大化の改新
  • 中大兄皇子が天皇になる(天智天皇の誕生)
  • 藤原鎌足(中臣鎌足)の最期

中臣鎌足の誕生日

中臣鎌足は614年(推古天皇22年)
貴族であった中臣御食子(なかとみのみけのこ)
長男として誕生したと言われています。
※中臣鎌足の具体的な誕生日は不明です。

 

若くして中臣鎌足は秀才と呼ばれ、
中国の兵法書の六韜(りくとう)を暗唱したそうです。
※暗唱(あんしょう):暗記し、何も見ないで声2に出して唱えること

 

中臣鎌足と大化の改新

中臣鎌足が生きた時代、飛鳥時代

この時代は聖徳太子がとくに有名です。

 

622年に聖徳太子が死亡し、
626年に蘇我馬子が死亡した後は
蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が権力を握ります。

 

しかし、蘇我入鹿は敵であった
聖徳太子の息子の山背大兄王を
殺害するなどして自分勝手な政治を行います。

 

この事態を重く受け止めた中臣鎌足は、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に接近し、
蘇我氏を滅ぼすために行動を始めます。

 

そして645年、中臣鎌足は
中大兄皇子らと共に蘇我入鹿を殺害し、
その父の蘇我蝦夷を自殺に追い込むことに成功。

この出来事は、乙巳の変と呼ばれます。
※この乙巳の変がきっかけで大化の改新が開始されます。

 

この功績から中臣鎌足は
内臣に任じられて政府の中核となり、
皇太子となった中大兄皇子を補佐します。
※皇太子(こうたいし):天皇の子ども。次の天皇になる可能性が1番高い人

 

中大兄皇子らは改新の詔を出し、
天皇中心の律令国家の基礎を築きます。

 

中大兄皇子が天皇になる(天智天皇の誕生)

668年、中大兄皇子が即位。
中大兄皇子は、天智天皇と呼ばれます。

 

藤原鎌足(中臣鎌足)の最期

中臣鎌足は晩年重病となりますが、
天智天皇から大織冠(たいしょくかん)という
冠位と、「藤原」の姓をもらいます。

そして、その翌日の
669年11月14日(天智天皇8年10月6日)
藤原鎌足は亡くなります。享年56歳。

 

なぜ死の直前に、中臣鎌足から藤原鎌足になったのか?

なぜ天智天皇(中大兄皇子)は
中臣鎌足が亡くなる前日に藤原の姓をあたえたのか?

なぜ死の前に「藤原」の姓に
変える必要があったのか?

こういった疑問をもつ人もいるかもしれません。

なぜかというと
病気にかかった中臣鎌足に対して
「今までの功績をたたえたい」と
当時の天皇(天智天皇)が考えたからです。

そして天智天皇は、
今まで活躍してくれた中臣鎌足に
「藤原」の姓を与えたということです。

天皇から姓をもらうことを、
「賜姓(しせい)」といいます。
わかりやすく簡単に説明すると、
天皇からプレゼントのことです。

当時の天皇である天智天皇は、
大化の改新から始まり
中臣鎌足と深い関係にありました。

 

なぜ「藤原」という姓なのか?

では、なぜ「藤原」という姓なのか?
その理由については諸説ありますが、
「中臣鎌足の生まれた地の名をとった」
という説が1番有名です。

※中臣鎌足の出生地:大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)

 

中臣鎌足と藤原鎌足の違い

死の直前に
中臣鎌足から藤原鎌足に変わったため
日本の歴史を学ぶ際に混乱する人も多い印象です。

基本的に、生きていた頃は
「中臣鎌足」の名が使用され
「藤原氏の祖」としてを指す場合に
「藤原鎌足」が使用されます。

 

中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫について

 

中臣鎌足の子孫について紹介します。

中臣鎌足の子孫で有名な3名を、以下で簡単に解説します。

藤原不比等【中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫】

藤原不比等(ふじわらのふひと)
中臣鎌足(藤原鎌足)の子ども(次男)です。

 

藤原不比等大宝律令
養老律令の編集をしたことでも有名です。

その他にも、平城京の遷都にも関わったりと
日本の歴史において大きな影響を与えた人物。

 

また、自分の娘を皇族に嫁がせて、
藤原氏繁栄の基盤を築き上げます。

 

藤原道長【中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫】

藤原道長(ふじわらのみちなが)
平安時代を生きた中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫です。

 

藤原道長の娘たちは天皇に嫁いだため、
藤原氏は天皇家の外戚となります。

そして藤原道長
天皇の代わりに政治をする摂関政治で権勢をふるいました。

 

藤原頼通【中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫】

藤原頼通(ふじわらのよりみち)
平安時代を生きた中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫です。

藤原頼通藤原道長の息子です。
なんと、50年間も関白を務めます。

藤原道長、頼通親子が藤原氏の全盛期とされ
藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は現在でも有名です。

 

しかし、外戚関係のない後三条天皇の即位によって、藤原氏は少しずつ衰退を始めます。

 

最後に

藤原鎌足と阿武山古墳

中臣鎌足(藤原鎌足)とはどんな人だったのか、
何をした人だったのか、などなど
中臣鎌足(藤原鎌足)について
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。

最大氏族「藤原氏」の始祖である
中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫についても
有名な人物を3名紹介しました。

  1. 藤原不比等
  2. 藤原道長
  3. 藤原頼通

 

中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫は
この3名以外にもたくさんいます。
そしてその多くの方たちが歴史に名を残しています。

 

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