中臣鎌足の死因とは?病気?暗殺?【その生涯 (誕生から最期まで) もわかりやすく簡単に解説】

WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -

 

中臣鎌足の死因について
はっきりとした記載は残っていませんが
病気の可能性が高いとされています。

中臣鎌足を死に追いやったその病気とは
肺炎や尿路感染症だったと予想されています。
※肺炎と尿路感染症は高齢者が特にかかりやすい病気

  • 中臣鎌足の誕生時期:614年
  • 中臣鎌足の死亡時期:669年11月14日

※中臣鎌足の最期の年齢は56歳

 

中臣鎌足の死因は本当に病気?暗殺の可能性もあり?

 

中臣鎌足の死因としては病気が定説ですが
その病気の原因は事故だと推定されています。

中臣鎌足の死因に関係のあるその事故とは
高い所からの落下による脊椎・腰椎の損傷です。
※落馬(馬からの落下)が原因の可能性がある

その事故をきっかけに中臣鎌足は下半身不随となり、死因の病気(肺炎や尿路感染症など)につながったと考えられています。

柴犬

 

また、中臣鎌足の死因は明らかでないため
誰かに暗殺された可能性ももちろんあります。

中臣鎌足はあの大化の改新を起こした張本人。
そして、政治的な権力もかなりもっていたため
飛鳥時代を生きた誰かに恨まれる確率は高いです。

 

豆知識ですが、昭和時代に阿武山で発見された阿武山古墳が、藤原鎌足(中臣鎌足)のお墓だといわれています。

柴犬

藤原鎌足と阿武山古墳

飛鳥時代 (592年から710年まで) とは?どんな時代だった?【日本の歴史をわかりやすく簡単に】

 

 

中臣鎌足ってどんな人?何をした人?【生涯(誕生から最期まで)をわかりやすく簡単に解説】

蘇我入鹿・中臣鎌足・天智天皇 (ぎょうせい学参まんが歴史人物なぜなぜ事典)

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、飛鳥時代政治家です。

中臣鎌足と藤原鎌足は同じ人物。

中臣鎌足(藤原鎌足)は、
最大氏族「藤原氏」の始祖なのです。
※始祖(しそ):その家系の1番最初の人


中臣鎌足とはどんな人だったのか?

何をした人だったのか?などなど
中臣鎌足の死因考察にもつながる内容を
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

  • 中臣鎌足の誕生日
  • 中臣鎌足と大化の改新
  • 中臣鎌足と中大兄皇子
  • 藤原鎌足(中臣鎌足)の最期

中臣鎌足の誕生日

中臣鎌足は614年(推古天皇22年)
貴族であった中臣御食子(なかとみのみけのこ)
(長男)として誕生したと言われています。
※中臣鎌足の具体的な誕生日は不明です。

 

若くして中臣鎌足は秀才と呼ばれ、中国の兵法書の六韜(りくとう)を暗唱したそうです。

六韜: 兵法 武経七書

※六韜(りくとう)とは:中国の代表的な兵法書(戦術などが記載された本)。武経七書の一つ。

 

中臣鎌足と大化の改新

中臣鎌足が生きた時代、飛鳥時代

この時代は聖徳太子がとくに有名です。

 

622年に聖徳太子が死亡し、
626年に蘇我馬子が死亡した後は
蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が権力を握ります。

 

しかし蘇我入鹿は、敵であった聖徳太子の息子の山背大兄王を殺害するなどして自分勝手な政治を行います。

 

この事態を重く受け止めた中臣鎌足は
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に接近して
蘇我氏を滅ぼすために行動を始めます。

 

そして645年、中臣鎌足は
中大兄皇子らと共に蘇我入鹿を殺害し、
その父の蘇我蝦夷を自殺に追い込むことに成功。

この出来事は、乙巳の変と呼ばれます。
※この乙巳の変がきっかけで大化の改新が開始されます。

 

中臣鎌足と中大兄皇子

大化の改新の功績から中臣鎌足は
内臣に任じられて政府の中核となり、
皇太子となった中大兄皇子を補佐します。
※皇太子(こうたいし):天皇の子ども。次の天皇になる可能性が1番高い人

 

中大兄皇子らは改新の詔を出し、
天皇中心の律令国家の基礎を築きます。

 

668年、中大兄皇子が即位(天皇になる)。
※中大兄皇子は、天智天皇と呼ばれます。

 

 

藤原鎌足(中臣鎌足)の最期

中臣鎌足は晩年に重病となりますが、天智天皇から大織冠(たいしょくかん)という冠位と、「藤原」の姓をもらいます。

そして、その翌日の669年11月14日(天智天皇8年10月6日)に藤原鎌足は亡くなります。享年56歳。

 

なぜ死の直前に、中臣鎌足から藤原鎌足になったのか?死因と関係ある?

藤原氏の正体 (新潮文庫)

 

なぜ天智天皇(中大兄皇子)
中臣鎌足が亡くなる前日に
藤原の姓をあたえたのか?

中臣鎌足の死因に関係あるのか?

なぜあえて死の前に「藤原」の姓に
変える必要があったのでしょうか?

こういった疑問をもつ人もいるかもしれません。

なぜかというと
病気にかかった中臣鎌足に対して
「今までの功績をたたえたい」と
当時の天皇(天智天皇)が考えたから。

つまり天智天皇は、
今まで活躍してくれた中臣鎌足に
感謝の気持ちを込めて
「藤原」の姓を与えたことになります。

天皇から姓をもらうことを
「賜姓(しせい)」といいます。
わかりやすく簡単に説明すると、
天皇からプレゼントのことです。

 

当時の天皇である天智天皇は、大化の改新から始まり、中臣鎌足と深い関係にありました✨

柴犬

 

では、なぜ「藤原」という姓なのか?
その理由については諸説ありますが、
「中臣鎌足の生まれた地の名をとった」
という説が1番有名です。

※中臣鎌足の出生地:大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)

 

このようなストーリーからイメージすると
藤原鎌足(中臣鎌足)の死因は暗殺ではなく
やはり病気であった可能性が高そうですね。

 

中臣鎌足と藤原鎌足の違いとは?死後が藤原鎌足?

死の直前に
中臣鎌足から藤原鎌足に変わったため
歴史を学ぶ際に混乱する人も多い印象です。

基本的に、生きていた頃は
「中臣鎌足」の名が使用されて
「藤原氏の祖」としてを指す場合に
「藤原鎌足」という名が使用されます。

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2022 All Rights Reserved.