関孝和(せきたかかず)とは
江戸時代を生きた数学者です。
誕生時期:1642年ごろ
死亡時期:1708年12月5日
新しい公式を開発したことでも有名で
「算聖」と讃えられました。
関孝和とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?
子孫は誰なのか?などなど
関孝和について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
関孝和ってどんな人?
関孝和の誕生日
関孝和は
1635年(寛永12年)から1643年(20年)の間に
生まれたとされますが、はっきりしていません。
※関孝和の具体的な誕生日は不明です。
生まれた地は、群馬県藤岡市と
東京都の2説があります。
関孝和は内山七兵衛永明の次男として
生まれますが、若くして関家の養子となります。
関孝和と甲府藩役人
関孝和は吉田光由の”塵劫記(じんこうき)”を
独学して、高度な数学を学びます。
関孝和は生涯の大半を
甲府藩(山梨県)徳川家で
勘定専門の役人として仕えます。
晩年になると、藩主の徳川綱豊が
第6代将軍徳川家宣となり、
関孝和も幕臣となりますが間もなく隠居します。
関孝和の最後
関孝和は
1708年12月5日(宝永5年10月24日)に
病死します。
関孝和って何をした人?
関孝和は和算の飛躍に大きく貢献します。
- 和算の飛躍
- 傍書法の開発
- 天元術の発展
- 正多角形の関係式
- 円周率の算出
和算とは日本独自に発達した数学のことです。
独自の記号法である
傍書法(ぼうしょほう)という方法を開発して
文字係数方程式を扱うことを可能とします。
また、中国から伝わり用いられていた
天元術を格段に発展させて、高次方程式を
公式的に解く新しい算法を作ります。
これを「帰源整法」と名付けますが、
のちに松永良弼が「点竄術」と改名します。
他にも、江戸時代で
円周率を小数第11位まで算出したそうです。
これらの関孝和の功績は、
後の和算者たちに大きな影響を与えます。
各種の新しい公式が開発されたことで
数式表現が非常に分かりやすくなり、
問題解決の見通しが立ちやすくなったそうです。
関孝和の『発微算法』
関孝和は、生涯に一冊だけ
『発微算法(はつびさんぽう)』という
書物を出版しています。
まず、沢口一之の
「古今算法記」という本に
天元法では解けない難しい問題が
記載されていました。
それを関孝和が、この著書の中で
自ら考えた公式を用いて解答法を明らかにしたのです。
関孝和の子孫は誰?
関新七郎久之【関孝和の子孫】
関新七郎久之は、関孝和の養子です。
関孝和の兄の子どもであったようですが
品行が悪かったことから重追放となり、
関家はお家断絶となったそうです。
関孝和自身の史料が非常に少ないのも、
関家が断絶したことも一つの理由と考えられています。
関孝和の弟子
また、関孝和の子孫ではありませんが
関孝和には生涯で何人か弟子もいたようです。
特に著名な弟子はこの2人。
- 建部賢弘
- 荒木村英
建部賢弘は徳川吉宗に仕えて、
円弧の長さを計算する無限級数を見出します。
荒木村英は、
関孝和の遺した原稿を編集して
『括要算法』を刊行しました。
最後に
関孝和とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?
子孫は誰なのか?などなど
関孝和について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。