日本の歴史上には様々な戦いがあり、
現代までに多くの犠牲が払われてきました。
その中の一つとして、白虎隊は
「飯盛山の自刃(じじん)」で知られています。
白虎隊(びゃっこたい)とは何か?
どのような部隊だったのか?などなど
白虎隊について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
白虎隊とは何か?
白虎隊(びゃっこたい)とは、
会津藩が組織した16歳から17歳の
武家の男子によって構成された部隊です。
会津藩とは現在の福島県です。
1868年の会津戦争に際して
この白虎隊は結成されました。
白虎隊の名前の由来
白虎隊の名前は、
中国の伝説の神獣である
「白虎」からきています。
10代の若者たちが、なぜ
部隊として結成されたのでしょうか?
白虎隊の結成について
1868年に起きた鳥羽伏見の戦い後、
会津藩は新政府軍の襲来に備えて
今までの精神論ではなく、
戦力を重視した軍制改革を行います。
軍の体制はフランス式に変更されて
年齢別に以下の部隊が結成されました。
- 玄武隊(げんぶたい)
- 青龍隊(せいりゅうたい)
- 朱雀隊(すざくたい)
- 白虎隊
いずれも武家の男子によって編成され、
18~35歳までの朱雀隊を主力として
50歳以上の玄武隊と16、17歳の白虎隊は
予備隊として結成されたのです。
白虎隊の悲劇について【飯盛山の自刃】
ここでは、有名な
白虎隊の悲劇について
解説していきます。
戊辰戦争での白虎隊の出陣
当初、予備隊であった白虎隊は
戦闘には出ず、主に警備を担っていました。
しかし戊辰戦争が始まると状況は悪化、
次第に戦場が会津に移っていきます。
そこで会津藩主の松平容保は
白虎隊に出陣命令を下します。
最新の兵器を使う新政府軍に対して
それに劣る武器を手にした白虎隊は
戦いの最前線へと駆り出されることに。
白虎隊の一番隊は
松平容保の警護に就き、
二番隊は戸ノ口原へと向かいます。
二番隊はここで
新政府軍と激闘を繰り広げますが、
新政府軍の若松城侵攻を許します。
絶望する白虎隊の少年たち
こうして二番隊は大勢の負傷者を
抱えながら、郊外の飯盛山へと退避します。
やっとの思いで飯盛山へ避難した
白虎隊の二番隊でしたが、その地で彼らは
炎に包まれた若松城と若松城下を目にします。
会津藩に勝ち目がないことは明白でした。
死を覚悟する白虎隊の少年たち
その光景に絶望した20人の少年たちは
その場で自刃することを決意したそうです。
白虎隊の若き少年たちは
自ら刀を抜いて腹を切り、
あるいは、喉を突き刺します。
急所を外した飯沼貞吉だけは
一命を取り留めますが、残りの
19名の少年は全員命を落とします。
しかし実際は、
若松城は籠城中であり
陥落してはいなかったのです。
この誤認による自刃が一般的です。
白虎隊は本当に自殺した?【飯沼貞吉の手記】
飯沼貞吉の手記によると
若松城に戻って戦うか、
死を覚悟して敵陣に挑むか
という意見で分かれたそうです。
その後
敵に捕まって恥をさらすよりも
自刃を決意したとされています。
最後に
白虎隊(びゃっこたい)とは何か?
どのような部隊だったのか?などなど
白虎隊について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。