秩父事件(ちちぶじけん)は
明治時代に起こった蜂起事件です。
自由民権運動の影響下に発生した
激化事件の代表例とされています。
秩父事件とは何か?
場所はどこだったのか?などなど
秩父事件について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
秩父事件とは?
秩父事件とは
1884(明治17)年10月31日から
11月9日にかけて起こった武装蜂起事件です。
農民が
悪徳金貸や明治政府の悪政を批判し、
税率の減少などの貧民の救済を訴えて
起こした反乱です。
いわゆる自由民権運動における
激化諸事件の一つとされています。
事件後の裁判の結果、
秩父事件に加担した4000人が逮捕されます。
秩父事件を起こした
主要人物7名には死刑判決が下り、
最終的には3800名が処罰されました。
秩父事件の場所はどこ?
秩父事件が起こったのは
埼玉県秩父郡という場所です。
埼玉、群馬、長野などの
民衆数千人が集まり1884年11月1日、
下吉田の椋神社で困民党が武装蜂起します。
農民たちは小鹿野、秩父市を占拠して
さらに皆野に進軍していきます。
さらに群馬県山中谷を経て、
長野県南佐久まで転戦します。
しかし明治政府は警察だけでなく
憲兵隊や東京鎮台までも動員して
徹底的な武力鎮圧を図ります。
そして11月9日に壊滅に至りました。
秩父事件の起こった経緯
江戸時代半ば以来、
秩父郡一帯は養蚕製糸が盛んで
生糸をフランスなどに輸出していました。
しかし1873年から起こった
ヨーロッパ大不況によって輸出していた
フランスの生糸価格が大暴落します。
そのため生糸の利益で生活をしていた
秩父の農民たちは大ダメージを受けます。
さらに明治政府は増税を推し進めており、
多くの農家が高利貸からの借金に
頼らざるをえなくなります。
そして借金が返せない農家は
破産にまで追い込まれていきました。
1884年8月、秩父郡の自由党員と
農民が中心となり困民党(こんみんとう)を結成します。
彼らは、秩父郡の貧民を救うために
借金10年据え置き、諸税の減免などを
嘆願して農民らと運動を行います。
しかし、政府はこれを受け付けず、
金貸しも要請を拒否して過酷な取り立てを続けます。
困民党は武装蜂起を決定し、その組織活動は
秩父地方だけでなく、秩父に隣接する
群馬県、長野県にまで及びました。
最後に
秩父事件とは何か?
場所はどこだったのか?などなど
秩父事件について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。