藤原純友(ふじわらのすみとも)は
平安時代中期を生きた貴族、海賊です。
誕生時期:893年
死亡時期:941年
藤原純友の乱を起こした人物として
歴史に名を残しています。
藤原純友とはどんな人か?
何をした人だったのか?などなど
藤原純友について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
藤原純友とは?どんな人?
藤原純友の誕生日
藤原純友は893(寛平5)年頃に
藤原北家の筑前守大宰少弐(だざいのしょうに)の
藤原良範(よしのり)の次男として生まれます。
※藤原純友の具体的な誕生日は不明です。
大叔父には藤原基経もいましたが、
早くに父を亡くしたことで
都での出世は望めなくなってしまい
地方官として働くことになります。
藤原純友と伊予の掾
931年、39歳であった藤原純友は
父の従兄弟である伊予守の藤原元名に
従って、伊予(愛媛県)の海賊を取り締まる
役人(掾じょう)として赴任します。
しかし上司の藤原元名が都に帰った後も
藤原純友は伊予にとどまったそうです。
藤原純友、海賊の首領に
そして936年頃には、藤原純友が
瀬戸内海の海賊の首領となります。
このとき藤原純友44歳。
藤原純友ら海賊は、
伊予の日振島を本拠の城として
1000艇以上の船を操り、周辺の海域を
荒らして瀬戸内海全域に勢力をのばしていきます。
藤原純友の乱
939年、藤原純友は
備前介の藤原子高(さねたか)を捕らえて
殺害するなどの反乱を起こします。
これが有名な藤原純友の乱です。
そして翌年の940年には
淡路国を襲って兵器を奪ったり
讃岐、周防、筑前を荒らしまわって
大宰府を焼き討ちにします。
同年に朝廷より藤原純友追補の令が出ます。
朝廷からは小野好古、源経基らが
追捕使(ついぶし)として派遣されます。
その結果、藤原純友ら海賊は
小野好古らの追討軍に大敗します。
藤原純友は日振島に脱出するも、
941年に伊予国警護の橘遠保(とおやす)に
よって討ち取られたとされています。
この藤原純友の乱は、
同時期に起こった平将門の乱と合わせて
承平天慶の乱とも呼ばれています。
藤原純友の最期
藤原純友は
941年7月21日(天慶4年6月20日)に
亡くなります。享年49歳。
藤原純友はなぜ海賊になった?
藤原純友は、なぜ
海賊になったのか気になりますよね?
現在でも様々な諸説がありますが
近代の研究だと、海賊鎮圧に
功績があったにもかかわらず、恩賞が
与えられなかったことに不満をもって
その要求を求めて反乱を起こしたと考えられています。
最後に
藤原純友とはどんな人か?
何をした人だったのか?などなど
藤原純友について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。