ゴッホの死因は自殺であると
一般的には考えられています。
そして、具体的なゴッホの死因は
2発の銃弾を受けたことによる失血死。
ゴッホは1890年7月27日に
自ら銃弾で2発を撃ち抜き
その2日後に失血死しました。
- ゴッホの誕生日:1853年3月30日
- ゴッホの命日:1890年7月29日
※ゴッホの最期の年齢は37歳
じつはゴッホの死因は自殺ではなく
誰かが仕組んだ暗殺だったのでは?
という声もありますが真実は謎のまま。
一般的な認識としては
ゴッホの死因は自殺となっています。
ゴッホはどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
ゴッホのフルネームはフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ。
ゴッホはポスト印象派の画家でした。
1853年3月30日にオランダで誕生して
1890年7月29日に37歳で亡くなりました。
以下でゴッホの生涯(最初から最期まで)を、わかりやすく簡単に解説していきます。
※ゴッホの死因考察にもお役に立てください💡
ゴッホ誕生
ゴッホは、
オランダ南部のズンデルトで
牧師の家に生まれます。
ゴッホの子供時代
ゴッホは
少年の時から思い込みが激しい性格で
熱烈な片想いと失恋を繰り返し
就職しても客や上司と衝突をしたそうです。
ゴッホ、芸術の世界へ
16歳のときに、
美術商の共同経営者である
叔父の取り計らいで同社に
就職し、画商として働きます。
この年から、
弟テオさんとの文通を始めたそうです。
このオランダ時代には、
貧しい農民の生活を描いた
暗い色調の絵を多く描いた
と言われています。
その後
テオさんを頼ってパリに移り、
印象派や新印象派の影響を受けた
明るい色調の絵を描くようになります。
名作を次々に生み出すゴッホ
1888年に南フランスに移ると
「ひまわり」や
「夜のカフェテラス」など
名作を次々に描きます。
ゴッホの「耳切り事件」
同年10月末から
ゴーギャンさんと共同生活を送りますが、
2人の関係は行き詰まり、
ゴッホが自らの左耳を切り落とす「耳切り事件」で
共同生活は破綻します。
以後もゴッホは、
発作に苦しみながら
病院への入退院を繰り返しました。
発作の合間にも
「星月夜」など多くの風景画や
人物画などを描き続けます。
ゴッホの最期と死後
1890年にも画作を続けますが
7月27日に銃で自らを撃ち、
2日後の29日に死亡しました。
生前に売れたゴッホの絵は
「赤い葡萄畑」のみだったそうですが
彼の死後に、作品は高く
評価されるようになりました。
ゴッホの作品は、
感情の率直な表現、
大胆な色使いで知られ
ポスト印象派を代表するものとなります。
フォーヴィズムやドイツ表現主義など
20世紀の美術に大きな影響を及ぼします。
ゴッホ関連の著書
ゴッホについての
著書はいくつもあります。
ここでは2つの
著書を紹介します。
- ゴッホ自画像の告白
- ゴッホの手紙
これらの著書について
以下で解説します。
ゴッホ自画像の告白
「ゴッホ自画像の告白」は
ゴッホの自画像集です。
ゴッホの自画像
すべてを収めています。
絵と精神の深い谷間で
ゴッホ自身が自分を見つめて、
描いた自画像の数々を、彼自身の
言葉と共に収録した1冊となっています。
ゴッホの手紙
「ゴッホの手紙」は
ゴッホの書いた手紙をまとめています。
ゴッホの親友であった
画家ベルナールさん宛てと
弟テオドルさん宛ての書簡を
著書としてまとめています。
当時、
自身の絵に無理解、悪意を示す
世の中と戦った彼の魂の記録といえます。