後三年の役(ごさんねんのえき)とは
平安時代後期に起こった戦いです。
この戦いののち、源氏は
東国に勢力を確立することとなります。
後三年の役とは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
後三年の役について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
後三年の役とは?
後三年の役とは
1083(永保3)年から1087(寛治元)年に
陸奥国(東北地方)で起こった戦いです。
前九年の役から約20年後に起きた
後三年の役は、「前九年の役で活躍した
人の子どもたち同士の戦い」です。
1083年、陸奥守として入国した
源義家が、この戦いを平定します。
清原清衡(きよひら)が奥羽の地盤を
引き継ぐこととなります。
またこの功績によって、源氏は東国に
勢力を確立することとなったのです。
後三年の役が起きた経緯
ここでは
後三年の役が起きた経緯を
解説していきます。
勢力が増す清原氏
前九年の役では、清原武貞(たけさだ)率いる
清原一族の加勢により、源頼義が安倍氏に勝利。
安倍氏が滅ぶと清原氏が
出羽、陸奥を含めた計9郡の
広大な東北地域を支配することになります。
東北地方一帯を支配した清原氏でしたが
安倍氏とは違って、朝廷に逆らうことなく
きちんと租税を納め、良好な関係だったそうです。
そして清原武貞の死後、彼の息子である
清原真衡(さねひら)が家督を相続します。
原因は清原家の家督相続
前九年の役が起きたきっかけは、
「安倍氏が朝廷に逆らったから」です。
一方、後三年の役が起きた原因は
「清原家の家督相続」によるものでした。
清原氏の家督を相続した清原真衡には
2人の兄弟がいました。
清原家衡(いえひら)と清原清衡(きよひら)です。
清原氏に古くから仕えていた
吉彦秀武(きみこのひでたけ)が、清原真衡への
不満が募って、清原家衡や清原清衡らと
協力して兵をあげることにしたのです。
家衡らの襲撃を知った清原真衡は
源義家に応援を要請し、清原家衡と
清原清衡らを制圧しました。
遺産相続争いへ
しかしその後、すぐに清原真衡が急死。
陸奥守であった源義家が間に入り
清原家の所領を、家衡と清衡で
折半して2人に与えることにします。
領地を折半という結果に、
清原家衡は納得できなかったため
その後遺産相続争いへと発展します。
源義家、清原清衡に加勢
1086年、清原家衡は清原清衡の館を襲撃し
清衡以外の家族を皆殺しにしたのです。
清原清衡は、このことを
源義家に報告し、助けを求めます。
こうして源義家は清原清衡に加勢します。
そして翌年、源義家は清原家衡を討ち、これを平定させたのです。
最後に
後三年の役とは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
後三年の役について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。