井伊直虎(いいなおとら)とは、戦国時代に
井伊家受難の時代を救った女領主でした。
そんな井伊直虎は
どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では
井伊直虎の死因について解説していきます。
井伊直虎の死について
井伊直虎は
1582年9月12日(天正10年8月26日)に
亡くなったとされています。
亡くなった際に僧につけられた
戒名は「月泉祐圓禅定阿尼」です。
亡骸は晩年に井伊直虎が過ごしたとされる
自耕庵に葬られ、現在は妙雲寺と名を改め
井伊直虎の墓と位牌が安置されています。
また井伊家の菩提寺である龍潭寺では、
井伊直虎の墓は井伊直親の隣に位置しています。
井伊直虎の死因は??
そんな井伊直虎の死因ですが、
はっきりと解明されていないのです。
そもそも井伊直虎の史料自体が少ない為
死因が分かっていないのです。
そこで、井伊直虎の死因について
いくつかの説を考察してみます。
- 老衰
- 病気
- 戦死
以下で簡単に解説していきます。
老衰【井伊直虎の死因】
井伊直虎の死因が老衰で
あったとする説です。
井伊直虎は1536年に生まれたとする説が
ありますが、正確には分かっていません。
もし井伊直虎が1536年に誕生していた場合
亡くなったのは46歳頃と考えられます。
当時、戦国時代の平均寿命は
50歳に満たなかった為、井伊直虎の死因が老衰であったという可能性も十分考えられます。
病死【井伊直虎の死因】
井伊直虎の死因は病死で
あったという可能性もあります。
ちなみに当時多かった病は、
麻疹(はしか)や癌、脳出血や
不治の病とされた結核など様々です。
また、天然痘なども死亡率の高い病気であり、
現在よりも治療法も少なかった戦国時代において、病死の可能性はとても高いです。
戦死【井伊直虎の死因】
井伊直虎が1568年(永禄11年)に
戦死したという説が浮上したのです。
今回発見された古文書は、井伊家の
家臣であった河手家(かわてけ)の子孫がまとめた
河手家系譜で、京都府京都市東山区にある
井伊美術館が発表しました。
この河手家系譜の中の1830年(文政13年)に
書かれた部分で、河手家の人物を紹介する
文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は
幼かったので河手が補佐した」と追記されていました。
そして次の行にも墨字で「永禄11年の
駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」
として、今川家滅亡のきっかけとなる
徳川家康らの今川攻めの際に、井伊直虎が
討ち死にした旨が書かれていたのです。
井伊直虎の死去は1582年とされていましたが、
この内容が事実であれば、通説よりも
14年も早く井伊直虎が亡くなっていたこととなります。
ただ、この墨字で追記したのが
誰なのかについては不明であり、まだ解明の研究が必要そうです。
最後に
この記事では
井伊直虎の死因について解説しました。