徳川家康ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
徳川家康(とくがわいえやす)は
戦国時代(室町時代末期)に誕生し
安土桃山時代、江戸時代初期を生きた武将・戦国大名です。
誕生時期:1543年1月31日
死亡時期:1616年6月1日
江戸幕府の初代征夷大将軍で、
250年も続く徳川幕府を開きました。
徳川家康とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
徳川家康について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
徳川家康とは?生涯についてざっくりわかりやすく解説
- 徳川家康の誕生日
- 徳川家康と織田信長の関係
- 徳川家康と豊臣秀吉の関係
- 豊臣政権の五大老の筆頭に
- 徳川家康と関ヶ原の戦い
- 徳川家康、江戸幕府を開く
- 徳川家康の最期
徳川家康の誕生日
1543年1月31日、
竹千代(徳川家康の幼名)は
松平広忠と於大の方の
嫡男として岡崎城で誕生します。
徳川家康がまだ幼い頃に、
母の兄である水野信元が
織田方と同盟したことがきっかけで
今川家に庇護されていた広忠が
於大の方を離縁してしまうことなります。
■庇護(ひご) = かばってまもること。
こうして徳川家康は、
実母と生き別れることとなります。
徳川家康と織田信長の関係
その後も徳川家康は、
織田家や今川家の人質となり、
父親も家臣に殺されたりなど
幼くして過酷な経験をたくさんします。
徳川家康が18歳のとき、
桶狭間の戦いによって長年
仕えてきた今川義元が死亡。
これをきっかけに
今川家から独立し
徳川家康は織田信長と同盟を結びます。
そして今川家を滅ぼし、
長篠の戦いで織田信長と協力し
武田勝頼を滅ぼしました。
しかし1582年に、
同盟していた織田信長は
本能寺の変によって明智光秀に殺されてしまいます。
徳川家康と豊臣秀吉の関係
織田信長の死後、
徳川家康は豊臣秀吉と対立し、
1584年に小牧・長久手の戦いで
豊臣秀吉と1年以上にわたり戦います。
後に和睦し、徳川家康は
豊臣秀吉の家来となり天下統一に協力します。
そして豊臣秀吉は天下統一を果たし
家康も恩賞として秀吉から関東地方をもらいます。
豊臣政権の五大老の筆頭に
その後、徳川家康は
豊臣政権のもとで五大老に就任します。
1598年、豊臣秀吉が亡くなり
その子供である豊臣秀頼の後見を
徳川家康が任されることになります。
徳川家康と関ヶ原の戦い
徳川家康は
「豊臣政権のため」という名目で
天下統一への行動を起こし始めます。
そこで石田三成らが徳川家康に対抗して
徳川家康を糾弾しようと画策し戦いが起こります。
そして1600年、
関ヶ原の戦いが起こり
石田三成を破ったことで
徳川家康は事実上の天下人となります。
徳川家康、江戸幕府を開く
1603年、徳川家康は
征夷大将軍に任命され、
以後250年続く江戸幕府を開きます。
また、日本全国の大名に対する
決まり事「武家諸法度」や
天皇や公家に対する決まり事
「禁中並公家諸法度」を制定し、
徳川幕府の支配を盤石なものにします。
徳川家康の最期
1616年、徳川家康はこの世を去ります。
徳川家康の死因については
諸説ありますが病気の可能性が高そうです。
これは豆知識ですが
徳川家康は今でいうところの
「健康オタク」だったようで、
当時の医者が顔負けするほど
医学の知識を持っていたそうです。
そのため、当時にしては
非常に長生きといわれる75歳まで生きました。
徳川家康は優しい性格だった?【徳川家康の性格について】
泣かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
これは徳川家康に関する川柳です。
この川柳は、
「ホトトギス」が鳴かないときに
どんな対応を取るのか?
つまり思い通りの結果が出せないときに、
どのような行動をするかを表現しています。
この川柳の中に、
徳川家康の性格を理解するヒントがあります。
徳川家康の場合だと、
我慢強い性格や優しい性格が表現されています。
徳川家康の妻(奥さん)について
徳川家康の妻(奥さん)として、
次の人たちが記録に残っています。
- 築山殿(つきやまどの)
- 朝日姫(あさひひめ)
- 小督局(こごうのつぼね)
- 西郡局(にしごおりのつぼね)
- 西郷局(さいごうのつぼね)
- 阿茶局(あちゃのつぼね)
- 下山殿(しもやまどの)
- お松(おまつ)
- 茶阿局(ちゃあのつぼね)
- お竹(おたけ)
- お仙(おせん)
- お牟須(おむす)
- お亀(おかめ)
- 普照院(ふしょういん)
- お梶(おかじ)
- お万(おまん)
- お奈津(おなつ)
- お梅(おうめ)
- お六(おろく)
- 信寿院(しんじゅいん)
徳川家康の子供(息子、娘)について
徳川家康には、
16人の実子がいたという記録が残っています。
息子が11人で、娘が5人です。
- 松平信康
- 結城秀康
- 徳川秀忠
- 松平忠吉
- 武田信吉
- 松平忠輝
- 松平松千代
- 平岩仙千代
- 徳川義直
- 徳川頼宣
- 徳川頼房
- 亀姫
- 督姫
- 振姫
- 松姫
- 市姫
さらに22人の養子や猶子も含めると
徳川家康には38人の子供がいたそうです。
徳川家康の養子の子どもで
特に有名なのが「満天姫(まてひめ)」です。
その人生は波乱万丈でした。
この満天姫(まてひめ)。
なんと実の子を毒殺したという
逸話が残っています。
徳川家康の養女「満天姫」については
以下の記事で詳しくまとめています。
徳川家康の家紋について
徳川家康が使用していた家紋は
「葵紋(あおいもん)」と呼ばれるものです。
徳川家康の家紋であるこの葵紋、
どこかでみたことありませんか?
「この紋所が目に入らぬか」
というセリフでおなじみ水戸黄門でも、
実はこの徳川家の葵紋を入れた印籠が使われていました。
徳川家康の家紋の意味や由来については
以下の記事で詳しく解説していますので
興味のある方は是非ご一読ください。
最後に
徳川家康とはどんな人なのか?
徳川家康は何をした人なのか?
この記事では
「徳川家康」について
なるべくわかりやすく
徹底解説していきました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。