前野良沢(まえのりょうたく)とは
江戸時代を生きた藩医、蘭学者です。
誕生時期:1723年
死亡時期:1803年11月30日
オランダ医学書の翻訳に努めて
杉田玄白と『解体新書』を完成させました。
前野良沢とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
前野良沢について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
前野良沢ってどんな人?
前野良沢の誕生日
前野良沢は、1723年(享保8年)に
福岡藩江戸詰藩士の源新介の
子として生まれます。
※前野良沢の具体的な誕生日は不明です。
幼くして両親を亡くした為、
叔父である宮田全沢に養育されます。
1748年に前野良沢は、
妻の実家である中津(大分県)藩医の
養子となり、姓を”前野”と改めます。
前野良沢と蘭学
前野良沢が、蘭学に興味を持ったのは
40歳を過ぎた頃と言われています。
※蘭学=オランダ語、オランダ語を通じて行われた学習研究。
晩年の青木昆陽(あおきこんよう)から
蘭学を教えてもらった後、
1769年に長崎へと留学をします。
そして長崎の留学中に、
前野良沢は西洋の解剖書である
「ターヘル・アナトミア」を手に入れて
江戸に持ち帰ったのです。
前野良沢とオランダ解剖書
そして1771年に前野良沢は
杉田玄白や中川淳庵らと共に
小塚原の刑場にて死刑囚の解剖を行います。
この時、前野良沢と杉田玄白は
「ターヘル・アナトミア」を所持していて
実際の解剖を見学したところ、
この解剖書の正確さにとても驚いたそうです。
こうして前野良沢と杉田玄白は、
この「ターヘル・アナトミア」を
日本語に翻訳して、世に広めようと考えます。
このとき、オランダ語の知識が
あったのは前野良沢だけでした。
しかし、前野良沢も完璧なわけではなく
翻訳書の完成までに3年半の月日がかかります。
1774年に『解体新書』が完成したのです。
前野良沢と『解体新書』
しかし、苦労してできた『解体新書』には
前野良沢の名前が記載されていません。
名前を載せなかった
理由については諸説あります。
まず解体新書における翻訳に
不備があることが分かっていて、
名前を載せるのは恥ずかしいと考えたから。
あるいは、当時の幕府は蘭学に対して
あまりいい顔をしていなかったので
万が一この翻訳書に関して罰があった時、
前野良沢に被害が及ぶのを避けた
杉田玄白による気遣いという説もあります。
そのため、『解体新書』は
杉田玄白の名前で出版がされています。
前野良沢の最期
晩年は、加齢による病で
眼病などにも苦しみますが、
熱心にオランダ語研究をしたそうです。
そして前野良沢は
1803年11月30日(享和3年10月17日)に
亡くなります。享年81歳。
前野良沢は蘭学に対する真摯な姿勢から、
周囲の人々から蘭学の化け物と賞賛されたのです。
最後に
前野良沢とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
前野良沢について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。