杉田玄白の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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人体解剖
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結論からいいますと
杉田玄白の死因はいまだ不明ですが
年齢的に老衰だと考えられています。

  • 杉田玄白の誕生日:1733年10月20日
  • 杉田玄白の命日:1817年6月1日

※杉田玄白の最期(最後)の年齢は83歳

 

杉田玄白はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

蘭学事始 (講談社学術文庫)

 

杉田玄白(すぎたげんぱく)
江戸時代を生きた医者です。

  • 杉田玄白の誕生日:1733年10月20日
  • 杉田玄白の命日:1817年6月1日

※杉田玄白の最期の年齢は83歳

 

杉田玄白は若くして医者になり
オランダ流医学(蘭学)を学んで
『解体新書』を完成させた人物です。

 

杉田玄白はどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
杉田玄白の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

杉田玄白の死因考察にぜひお役立てください💡

柴犬

杉田玄白の誕生日

杉田玄白は
1733年10月20日(享保18年9月13日)
若狭国小浜(福井県)藩医であった
杉田甫仙(すぎたほせん)の子として誕生します。

 

杉田玄白と小浜藩医

杉田玄白は17歳で希望していた
オランダ流医学の西玄哲に入門して
本格的に医学を学ぶこととなります。

また宮瀬龍門のもとで漢学を学び、
なんと19歳で小浜藩医となります。
※小浜藩医:若狭小浜藩に仕えた医師のこと

 

杉田ん玄白と江戸の町医者

1754年に、京都の山脇東洋
初めて死体の解剖を実施します。

これに杉田玄白も刺激されて、
医学の進歩発展への意欲を抱きます。

1757年、24歳の杉田玄白は
江戸の日本橋に開業して町医者に。

 

江戸にオランダ商館長らが来た時
平賀源内と一緒に長崎屋を訪問しますが
通訳者からオランダ語の難しさを諭されて
杉田玄白はオランダ語習得を断念しています。

 

杉田玄白と「ターヘル・アナトミア」

1771年、杉田玄白と同郷藩医である中川淳庵が、オランダ商館院から借りたオランダ語医学書の「ターヘル・アナトミア」を持って杉田玄白のもとを訪れます。

KUDANZ歌集「僕とターヘルアナトミア」

オランダ語は分かりませんでしたが、
その精密な解剖図に驚き、衝撃を受けます。

杉田玄白は藩に相談し、これを購入。

 

杉田玄白と前野良沢

解体新書 完全復刻図版集

そして豊前国中津(大分県)藩医の前野良沢
中川淳庵と小塚原での死刑囚の解剖を見学し、
オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」
の正確さに杉田玄白は感嘆したそうです。

そして前野良沢らと翻訳することを決意します。

 

杉田玄白と「解体新書」

解体新書

しかし、オランダ語の医学書を翻訳する
というのはとても大変だったようです。

”まゆ毛”の意味を説明している
1行のオランダ語を日本語にするのに
一日がかりであったという話も残っています。

 

そして3年半という月日をかけて
杉田玄白と前野良沢はオランダ医学書
「ターヘル・アナトミア」
の翻訳書を完成させて、出版します。

これが有名な「解体新書」です。

解体新書 完全復刻図版集

 

前野良沢は、翻訳に不備があることを分かっていたため、出版には消極的だったようです。

そのため、解体新書には前野良沢の名前を出さなかったそうです。

 

また、のちの1815年に杉田玄白は
蘭学事始(らんがくことはじめ)』にて、
その時の様子を詳しく記しています。

蘭学事始 (講談社学術文庫)

 

杉田玄白の最期

杉田玄白は江戸時代の後半頃の
1817年6月1日(文化14年4月17日)
命の最後を迎えることになりました。享年84歳。

杉田玄白のお墓は、東京都港区愛宕の栄閑院にあります。

 

杉田玄白の死因はいまだ不明ですが
年齢的に老衰だと考えられています。

  • 杉田玄白の誕生日:1733年10月20日
  • 杉田玄白の命日:1817年6月1日

※杉田玄白の最期(最後)の年齢は83歳

 

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