源頼義ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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男性と木とオーロラ
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源 頼義 (人物叢書)

 

源頼義(みなもとのよりよし)
平安時代中期の武士です。

誕生時期:998年
死亡時期:1075年

 

源頼義は
前九年の役で活躍して、
源氏の地位を確立しました。

 

この記事では
源頼義とはどんな人だったのか
何をした人だったのかについて
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

源頼義とは?どんな人?

源頼義の誕生日

源頼義は988年(永年2年)
河内国古市郡壺井村(現在の大阪府)で
源頼信(みなもとのよりのぶ)嫡男として誕生します。
※源頼義の具体的な誕生日は不明です。

源頼義の誕生日は994年(正暦5年)4月8日の説もあり。

 

源頼義は弓の達人として若い頃から
武勇の評判が高く、今昔物語集などにも
その武勇に関する物語が残されています。

 

河内源氏初代棟梁である父の源頼信は
当時関白であった藤原頼通に対し、長男の源頼義を
武者に、次男の源頼清を蔵人に勧めたそうです。

 

源頼義と平忠常の乱

 

1028年に、かつて父(源頼信)の家来であった
平忠常が関東にて反乱を起こします。

平忠常の乱、長元の乱と呼ばれています。

 

源頼義は、1030年に朝廷に命じられて
源頼信と共に平忠常の討伐に出陣。

上総国(現在の千葉県)に下った源頼義は
抜群の勇断と才気を示す活躍で反乱を平定します。

 

一方で、官位昇進では
弟の源頼清に少しずつ遅れをとっていました。

 

1036年に源頼義は、
相模守として初めて受領に任じられます。

 

桓武平氏の婿となる源頼義

源頼義は相模守在任中に、
平直方から娘をもらって婿となります。

 

平直方とは、平忠常の乱の鎮圧に失敗して
将軍を更迭されていた桓武平氏の嫡流筋である武将です。

 

 

平直方の娘との間に3人の子どもをもうけ
この相模守在任中の人や土地を基盤として、
河内源氏の東国への進出を図ることとなります。

 

源頼義と前九年の役

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1051年、10年余りに渡る
前九年の役が始まります。

 

当時、奥六郡(現在の岩手県)を任されていた
安部頼時(あべのよりとき)は周辺の
東北地方へも支配を拡大し始めます。

これを陸奥守であった藤原登任(ふじわらのなりとう)
鎮圧しようとしますが、安部氏が大勝利します。

そこで朝廷は、源頼義を
陸奥守に任命して陸奥国に派遣。

 

1053年、陸奥守兼鎮守府将軍として
自身の子どもである源義家と共に
安部頼時の反乱を長年月にわたる苦戦のすえに、鎮定します。

 

この戦いによって、源頼義は
東国における源氏の勢力を強めて、
源氏の地位も確立することに成功したのです。

源頼義は、この功績により正四位下伊予守となります。

 

 

源頼義の最期

伊予守の任期を終えた源頼義は
出家して信海入道と称します。

 

そして、これまでの戦いで命を落とした
敵味方の為に「耳納堂」という寺堂を建立。

 

また河内源氏の氏神である石清水八幡宮を
鎌倉由比(ゆい)に移して祀りました。

 

源頼義は
1075年8月27日(承保2年7月13日)に亡くなります。享年87歳。

 

最後に

炎立つ 四 冥き稲妻 (講談社文庫)

 

この記事では
源頼義とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
源頼義について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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