平忠常の乱と何か?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は
平安時代に房総三カ国で起きた反乱です。
この反乱によって、
房総三か国はおおいに荒廃しました。
平忠常の乱とは何か?
どのような反乱だったのか?などなど
平忠常の乱について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
平忠常の乱とは?
平忠常の乱は
平安時代の1028年に、平忠常が
房総三カ国で起こした反乱です。
房総三カ国とは上総国(千葉県南部)、
下総国(茨城県)、安房国(千葉県南部)の
現在の関東地方周辺です。
乱を起こした平忠常は平将門の
叔父である平良文の孫にあたります。
朝廷は、この反乱に対して
討伐軍を派遣しますが、鎮圧するまでに
なんと3年の月日を要したのです。
しかし有力武士である源頼信が
起用されてから、平忠常は降伏しました。
この乱は長元の乱とも呼ばれていて
平将門の乱以来、100年ぶりに
起こった大規模反乱となりました。
平忠常の乱の内容
房総三カ国を制圧【平忠常の乱】
1028年、平忠常が安房守惟忠の
焼死事件を起こします。
さらに上総の国府も襲って
房総を占領します。
平忠常の反乱は、その地に住んでいる
人々も多く味方につけたようです。
次第に受領に不満を持つ人々が増えていき
下総、上総、安房と房総三カ国にわたる
大反乱へと発展していくのです。
源頼朝によって鎮圧
朝廷は忠常追討の官符を出し、
1031年に追捕使として源頼信を
派遣することにします。
源頼信は、藤原純友の乱を
鎮圧したことで有名な源経基の子孫です。
平忠常は、源頼信と一度も
戦わずして降伏してしまいます。
その理由については諸説ありますが、
源頼信が、平忠常の息子の命と交換条件に
降伏することを提案したという説があります。
あとは、源頼信と平忠常は昔
一緒に仕事をしたことがあったそうで
上司と部下の関係だったとか。
源頼信には逆らいたくないと考えた末、
戦わず降参したのではないかという説です。
そして、降伏した平忠常ですが、
京への連行中に病気で亡くなります。
平忠常の乱の経緯
当時の関東地方は、京都にある
朝廷の力が及ばない地でした。
当時のこの地は、平氏たちの基盤が
築かれていた一方で、平氏同士の
争いが絶えなかったそうです。
平将門の乱もそうですが、
実は平常忠の乱が起きた原因は
現在でも明確にはなっていません。
記録などによると、平忠常は
はじめに安房守を討ったようです。
平忠常は、以前から朝廷への納税などを
拒否するなど問題を起こしていたことから、
安房守と対立するようになったのでは
ないかと考えられています。
最後に
平忠常の乱とは何か?
どのような反乱だったのか?などなど
平忠常の乱について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。